笑って、涼介は快諾してくれた。
予想もしていなかった展開だけに、本当に、ものすごく嬉しかった。
正直、別に、何かのついででも構わなかった。ミーティングの後でも、全然構わなかった。ただ、ほんの数分でも涼介の言葉を聞きたかった。そして、より一層、彼のために自分の腕を一定レベルにまで達せられるよう、少しでも速くクルマを走らせられるよう、努めたかったのだ。
自分の夢のため、というのもある。
と同時に、それだけが今、涼介と自分とを結びつけている絆なのだ。
それを、何かのついでではなく、そのためだけに日を改めても構わないと涼介が言ってくれるのなら──
甘えてもいいのかもしれない、と思った。
他でもない、涼介自身がそう言うのなら、彼に時間があるのなら、その言葉に甘えようと。
そう思ったのだ。
けれど。
実際はどうだろう?
涼介に無理はさせたくない──そう願いながら、自分のしていることといったら、涼介に負担を掛けているだけではないだろうか?
多分どころか、十中八九、自分は涼介に無理を強いている。
その証拠に、日を改めようということで『お互いが都合の良い日時を』と、いつも合い言葉か挨拶のように繰り返しながらも、実際に会って涼介に教えを乞うことができたのは、約束したうちの五割にも満たない。
当然、断られた約束の全ての理由は、涼介に起因するものばかりである。拓海自身は涼介と違って、仕事さえ終われば他の用事などないのだから、どうにでも都合をつけられる。都合をつけられないのは涼介の方だということは、言うまでもなかった。
もっと速くなりたい。ドライバーとして、認められたい──
彼に近付きたい。…傍にいたい──
この二つは、教えを乞い知識を養う中では、決して相反するはずのないものだと拓海は考えていた。だが今、それを涼介に求めることで、彼に負担を強いている。
ただでさえ彼は、どこにいても何をしてても、誰より必要とされ、多忙な毎日を送っている身の上なのに、責任感の強い彼が拓海の頼みを退けないのをいいことに、貴重な彼の時間を自分は奪っている。
この自分が、彼にそうさせてしまっているのだ。
避けたかった状況に彼を追いやっているという事実に気付いてしまえば、そのことから、拓海は目を逸らすわけにはいかなかった。
「…そうだよな………。どう考えたって、一方的に無理言ってんのはオレなんだし………こういうの、やっぱ…良くないよな………………」
結果として彼を振り回している自分自身が、嫌になる。
速くなりたいと同時に、彼の傍にいられれば、と願ってしまったけれど。
やはり、そんな不遜な願いを持ってはいけなかったんだと、痛感させられる。
勝手に、一人心の中でなら何を願っていてもいい。迷惑だけは掛からないから。だが、それを直接彼にぶつけてはならなかったんだと、今にして思う。
たとえ当の涼介本人が許容したことであっても、拓海はその言葉に甘えるべきではなかったのだ。
一旦引き受けたことは確実にこなそうとする涼介のことだから、人知れず、無理を重ねている可能性だってある。現に、プロジェクトDでの遠征で寸暇を惜しんで睡眠を取るのは、そういった疲れが普段から蓄積しているからではないのか。
そう考えれば、いつまで経っても涼介の疲労が取れない理由も、自ずとわかる。
疲れを癒すための時間が必要なのは誰しも同じなのに、それさえも他人に奪われてしまえば、疲労が溜まるのは当然だろう。涼介がどれだけタフでも、休息時間を削るのには限界がある。そういう苦労を表面には出さない彼だからこそ、余計不安になる。気力で抑えられる間はいいが、臨界点を超えれば、疲れは一気に表に噴き出してくるだろう。
そしてそれでも、きっと涼介は、自分から『やめよう』とは言い出さない。拓海のドライバーとしての知識不足を補ってやろうと、その知識欲を満たしてあげようと、そういう涼介の思いやりは伝わってくる。
だから涼介から、講義をやめにしようと言うことはない。忙しいからと言って少し間を置くことも、しようと思えばできるのに、それすらしない。
…ならば、断りを入れなければならないのは、必然的に拓海の方になる。
涼介に教えを乞うたのも自分。
それを断るのも自分。
だが、勝手だと涼介に思われることを覚悟してでも、言った方がいいだろう。
本当に、彼の身を案じるのなら。
──やっぱり、どう足掻いても土台無理な話なんだよ。あの人に近付くなんて………
心の何処かで、そんな一言が寂しく木霊した。
◇ ◇ ◇
最後に涼介から連絡があってから、数日後。
明日はDのミーティングを予定している日である。今日は、その前日だった。
運送業という仕事に定時などあるわけもなく、シフトに合わせて配達ルートを終えて初めて、拓海の仕事は終わる。
本日は伝票などの残務処理も殆どなく、制服から私服へと着替え終わったのは、いつもに比べれば早い時刻だった。
同僚や上司へと挨拶を交わし、拓海はぼんやりと通い慣れた家路に就く。
覇気がないと常日頃から称される顔は、ここ数日いつにも増してボケている印象があった。職場の周りの人々は密かにそれを噂していたのだが、当の拓海は全く自覚なしだった。幾度か同僚に直接指摘されたのだが、いつも通りですけど、という答えしか拓海は返さなかったし、また、仕事にも朝の豆腐配達にも何の差し支えもなかったから、それを彼自身、信じて疑わなかった。
だが、その『ぼんやり』度合いは、どうやら相当に酷かったようだ。
”彼”とすれ違っても、気付かないくらいだったのだから。
* * *
「ちょっ…と、おい、藤原!」
通りすがりの人にいきなりグイッと二の腕を掴まれて、拓海は強引に歩みを止められる。
名前を呼ばれたからには、自分の知り合いには違いない。が、引き止め方が強引すぎて、力任せに掴まれた腕がジンジンと痛む。
誰だよ一体…、と思ってムッとした拓海が振り返ると、それは、会いたくて、でもここら辺では絶対に会えないはずの人だった。
「…っ、涼介さん…!?」
ウソだろ、と声もなく口を動かし、驚きの余りにいつになく大きく目を見開く拓海を、涼介が心配そうに見やり、眉を顰めた。
「…大丈夫か? なんか、相当疲れてるみたいだけど──」
珍しく挨拶もそこそこに、いきなり心配の言葉を投げ掛けてくる涼介に、狼狽えながらも拓海は答えた。
「………あ、いえ、…ただボケボケしてただけなんで………あの、それに、こういうの、いつものことだし………」
それより何より、どうしてここに涼介がいるのかが、拓海は気になって仕方がない。
なので、気もそぞろに、ご心配には及びませんから、とボソボソ付け加える。
すると、ますます涼介から不審そうな目を向けられた。
「…言っとくけど。藤原を見掛けてから、オレは二回も声掛けたんだぜ? なのに、こっちを振り返るどころか、全く気付かないでスタスタ歩いて行っちまうし………」
「え………そ、そうだったんですか…? すいません、オレ…ホントボケてて…っ」
俯き加減で肩を縮こまらせ、焦って謝る拓海に、それは違うだろ、と呟き返した涼介は、小さな溜息を漏らした。
「………藤原、そういうのはボケてるんじゃなくて、疲れてるって言うんだ。きちんとした日本語、使えよ…。…それに、顔色も…あんまり良くないんじゃないか?」
ジッと見つめられて、拓海の心拍数が急上昇した。
こんな近くで顔を合わせて涼介と話をする回数は、未だに数少ない。拓海のクルマの基礎知識を養う講習会もどきを数回重ねていても、慣れるなんて領域にはまだまだ達していない。
尤も、拓海自身、慣れることはあり得ないだろうと思うのだ。
そんな確信に満ちた思いで、こちらを覗き込んでくる整いすぎた容貌を見ながら、熱を帯びた自分の頬をごまかすように、一、二歩後ずさって必死で首を横に振った。
「いえ、そんな………マジで疲れてませんって。大体…オレなんかより、涼介さんの方がよっぽど………」
「──本当に、疲れてない?」
言おうとした拓海の言葉は、涼介に遮られてしまい、取りあえず彼の質問に答えなければならなくなった。
「…はい…、別に疲れてないですよ…?」
「じゃ、この後の予定は? 晩飯はまだ?」
涼介のいきなりの話題転換に、拓海は考える暇も与えられず、ポロリと正直すぎる返事が口をついて出た。
「………予定は特にないし…晩飯もまだですけど」
すると、涼介が満足そうに微笑んだ。
「なら、これから一緒に食べに行かないか? 奢るぜ。藤原さえよければ、だけど」
この前、約束を反故にしたお詫びも兼ねて、と、少し苦笑を交えてそう言った。
あれは涼介が罪悪感を感じることじゃないのに、と思わず拓海は反論しかけそうになったが、ふと、口を噤んだ。
軽く付け加えたその台詞が、食事に誘ってくれた第一の理由ではないだろう。それなら、敢えて蒸し返す必要はない。
けれど──
素直に頷いていいものかどうか、拓海は迷った。
誘ってくれる気持ちは、すごく嬉しい。
さっきは失礼にも、涼介の再三の呼び掛けに気付かなかったようだが、思いがけない偶然でプロジェクト以外で会えて──おそらく純然たる好意から、食事を一緒にと涼介は言ってくれているのだ。
少なくともそれくらいの好意は抱かれているんだろうとわかるから、それが拓海には嬉しかった。
それにきっと、こういう機会なんか早々ないと思う。
だから、一緒に行きたい、というのが正直な気持ちだった。
だが──
これも涼介の言葉に甘えていることになるのではないだろうか?
食事を取ること自体は些細なこととはいえ、何だか先日から気になっていたあのことと、重なる。
──涼介自身が申し出たことでも、彼の負担になり得る。
食事くらいなら何てことはないだろうが、それでも、どこまでが負担でどこまでがそうでないのか、そのラインは曖昧ではっきり見えない。
涼介がそんな狭量な人間ではないと知っているのに、こんな些事であっても、気になり出したらキリがなかった。
拓海がどうしようかと躊躇っていると、涼介が苦笑した。
「…気が乗らないなら、無理にとは言わないよ。…まあ、…唐突すぎたしな」
残念だけど、と肩を竦める様子に、拓海は慌てて顔を上げた。
それは、完全な誤解だった。
気が乗らないなんて、そんなことはない。
そう言おうとした──のだが。
何故か、声が出てこない。
涼介を見上げて、視線が絡むと、どうしてだか何も言えなくなった。
真剣な面持ちで黙って見つめる拓海に、涼介は小さくクスリと笑う。
「気にしなくていいから。今日はゆっくり体を休めろよ?」
労るようにポンと軽く拓海の肩を叩き、また明日、と言い置いて、クルリと踵を返す。
その涼介の背中が見えなくなるまで、拓海はずっとそこに佇んでいた。
どうして高崎に住んでいるあの人が、こんな所にいたんだろう、と。
振り返らないその背中に、先程過ぎった疑問を頭の片隅で考えながら。
拓海は心の中で謝った。
ごめんなさい、と。
ただ一言。
せっかくの好意を、受け取れなかったことを。
自分なんかのために、気を遣わせてしまったことを。
それから──
彼の、自分への好意のいくつかを、この先、無にするかもしれないことを。
.....続く
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