カラダの関係 

2001.8.5.up


 キシリ。
 軋む音がし、ベッドが撓んだ。
 自分の隣で寝そべっていた人物が、こちらを向くために寝返りを打ったのだろう──そういう気配。
「…涼介さん?」
 どんな空気にも溶けて消えてしまいそうなほどに覇気のないその声は、藤原拓海のものだ。
 どのような思いや感情を抱えているのか、この自分でさえも感じ取れない声音。
 いつも同じ、まるで意志のなさそうな声。
 …彼の内面は、決してそんなふうではない。なのにその声は、彼本来の激しい気質を、覆い隠すかのようだ。
 そんな彼の問いかけに、涼介は彼の調子と同じく。
「………何…?」
 どうでもいい、とばかりに呟いた。
 腕を上げるのさえ億劫な倦怠感に苛まれ、拓海を振り返ることなく、涼介は何もない中空をぼんやりと眺めていた。
 だれた会話や怠惰な空気──しかし、それさえも二人にとっては既に慣れ親しんだものである。
 拓海は、涼介の無気力な返事に臆さず、問うた。
「前にも訊いたことあるけど………涼介さんは…──」
 一呼吸、置く。そして、静かな一言。
「…何で、オレと寝んの」
 聞いた瞬間、涼介は自分の体の中でどす黒いものが蠢くのを感じた。
 濁った澱みが、音も立てずにぞろりとうねる。
 しかし、時間にしてほんの一瞬。
 次の瞬間には、それを意識の外に追いやる。
 表には内面の変化など一片たりとも出しはしない。
 そして涼介は溜息をつき、軽く苦笑を口元に浮かべた。
「言っただろ? 抵抗するのは疲れるし、拒む理由もない。──だから」
「『だから』、何とも思ってないオレとでも、寝るって………?」
 涼介の言葉尻を取り、拓海は先を続けた。
 だが、普段と変わらない声でありながら棘のある言い方に、不快感を感じてようやく振り返ってみると、拓海が据えた目で涼介を見ていた。
 お門違いの糾弾に、涼介が眉間に皺を寄せ、僅かに顔を顰めた。
「そういうお前はどうなんだ?」
 ──お前にそんなこと言う資格は、これっぽっちもないんだぜ。
 言外にそう含め、涼介は拓海の論を一刀両断した。
「『身近にいて、寝れる相手』って理由だけでオレと寝てるんだろう、お前は」
 言って、皮肉げに嗤いながら、冷ややかな眼差しを拓海に向けた。
 すると、拓海の目にも険しい光が宿る。
 …けれど。
 互いに視線を絡ませていると、暫しの後に微妙に目は逸らされ、間もなくその光が消えた。
 ………何事もなかったかのように、跡形もなく。
 
 そして、沈黙が舞い降りる。
 
 再び、ベッドが微震を起こし、揺れた。
 かと思うと、身を軽く翻した拓海が、徐に涼介に覆い被さってくる。
 …素肌の温かさと、肉体独特の弾力感と、重み。腕と腕が触れ、胸と胸が重なり合い、脚と脚が交差し絡む。
 人体とは不思議なもので、男女ではなく男同士でも、体を重ねてみると案外ピタリとおさまり、しっくり馴染む。それは人肌の安心感とも呼べるもので、その快さには、到底適わないのだ──体の大小も、性別も。この時ばかりはそんなものは全て、些事となる。
 涼介が、回される拓海の腕を拒絶すべきかどうか、迷った──その時。
 ジワリ、と突然、涼介の腰に妖しい悦が生まれた。
 拓海の屹立したモノが自分のモノに触れたのだ。
 先程涼介の中で萎えたはずが、早くも熱くなり、硬度を増していた。グッと股間に押しつけられ、擦り合わされて、自身まで熱く猛り始める。
 待つまでもなく、相手の状態に呼応して高まる自分の反応は、速かった。
「…………最低だな…」
 ──速すぎる。
 涼介は、独りごちて、簡単に煽られた自分自身へと小さく舌打ちをした。
 すると、拓海は何を誤解したのか、いつになく強引に涼介の奥まった秘処を指で穿った。
「んンっ! ………っ…待、て………っ、あッ………」
 痛みを感じたのは、最初だけ。
 奥を目指して侵入する無遠慮な拓海の指が、内側の敏感な箇所を突く。その都度、ビクッと跳ねる涼介の体を、拓海はなだめるように背中から腰へと優しく慰撫し、耳たぶをやんわりと齧った。
「すげー…イイ反応………。ねえ、涼介さん………もう一回──」
 シていい…? と囁きねだる拓海の声こそが、悩ましい欲望に濡れていて──
 涼介は、体の奥から沸き上がる狂おしい感覚に身をふるりと震わせ、そっと目を閉じた。
 
 
 
 ようやく解放され、涼介はシャワールームに足を踏み入れた。
 ホテル特有の小さなユニットバスに、標準以上の体躯は、かなりせせこましい。けれど、それも常のことと割り切り、よろめく体を片側の壁に預け、蛇口を捻った。
 途端に、ザアッ…と水の音が響きわたり、やがて湯気で視界が曇る。
 ホッ、と一つ吐息をつく。
 何も考えなくてもいい、リラックスできる時間だ。
 拓海と二人で会っている時で、唯一の。
 それなのに、涼介は知らずのうちに回想していた。
 ──久々に聞いた、藤原拓海の、あの台詞。
 
 『涼介さんは、何で、オレと──』
 そう言った時の様子を、思い浮かべてみる。
 …冷めた声で、淡々と彼は涼介に訊ねていた。見はしなかったが、予想はできる。きっと無表情で、こちらに向ける彼の眼差しも、多分そんなものだっただろう。
 『シていい…?』
 この時だけ、声音は肉欲という名の熱を含んでいた。変化といえば、それだけ。
 そして、再び涼介の脳裏でリフレインされる。拓海の声──その一言。
 
 『何で、オレと寝んの』
 
 どうでも良いけど、と声の響きが物語っていた。拓海の顔を見ていなくても、想像に余りある。
 そういう態度が、涼介を苛立たせるのだ。
 ──ムカつくったらないぜ。
 ギリッと歯を食いしばる。
「…そんなの…っ」
 噛みしめた歯から、零れる呻き。
 ──スキだからって以外に、何がある!?
 叫びは、決して表に出ることはない。
 涼介は、荒れ狂う激情に流されないよう、頭から熱いシャワーを浴びながら、黙ってじっと立っていた。ギュウ、と力の限り握り締められた両の拳は、端から見ても、小刻みに震えている。
 眉間に深い皺が刻み込まれ、苦しみに歪み、強張った涼介の表情──それは、誰も見たことのない類のもので。肉親で一番身近にいる弟や、数年来の親友でさえ知り得ない、涼介の感情を、露呈していた。
 翳りを帯びた、漆黒の目がなにがしかを凝視するも、その昏い瞳には何も映っていない。
 涼介は、何もない虚空を、瞬きもせずずっと睨み続けていた。
 
 
 
 
 
 
 拓海は、涼介の浴びるシャワーの音を聞きながら、温もりの冷めつつある乱れたシーツを手のひらでゆっくり撫でた。
 ほんの少し、まだ温かさが残っている。
 自分と彼の体温と、それに追随した記憶が、先程までの情事が、拓海の脳裏を掠めた。
 
 『藤原………』
 喘いで、拓海に縋り付く彼の長い手足。
 拓海の首を引き寄せて、キスをねだる。腰を揺らめかせ、奥まで引き込もうともする。
 涼介は、特にキスが好きなようだった。
 けれど、彼の望むままに与えると、逃げる。こちらが引くと、追ってくる。──その繰り返し。
 体と体を繋げている時だけは、涼介は拓海の元に堕ちてくる。
 
 それも今となれば、既に過ぎ去った時間。先程までの熱いひととき。
 そんな時くらいしか相手にしてもらえない──その程度なのだ。涼介にとっての、自分の価値は。
 あるいは、拓海の要求に応えるのは、Dのドライバーを失いたくないから、だけかもしれない。
 拓海は自嘲し、クスリと小さく笑う。
 涼介の先程の言葉が、心に刺さる。
 『身近にいて、寝れる相手』
 それは、涼介自らが最初の頃に言い出したことだった。
 思い出して、拓海は唇を噛む。
 ──オレはバカだから、あの時はまだ自分の気持ち、はっきりとはわかってなくて。
 何でもないことのようにサラッとそう言う涼介の言葉を否定しなかった、あの時。自分じゃ適切な表現も思いつかず、何かが違う気がしたのに、結局ただ黙っていた。頷きはしなかったが、かといって他には何の意志表示もしなかった。
 ──バカすぎる。大バカだ………黙ってることは肯定と同じなんだって、そんなことにも気付かなかったなんて。
 だが、今になって後悔して、違うと否定したって、涼介が信じてくれるわけはない。
 もう、遅い。
 遅いとわかっていても、諦められない。
 いつの頃からか始まった不毛なこの肉体だけの関係を、拓海はやめられない。
 拓海の誘いを、涼介が本気で拒まないから。
 鬱陶しいだろうに、彼は拒絶しない。その理由は──
 『抵抗するのは、疲れる』
 だから、抵抗しない。
 しないどころか、一旦そういう行為を始めると、快楽を素直に受け入れ、それを増長させることも厭わず、いっそ淫らな程だ。
 相手が拓海ではなくても、本当は嫌であろうとも──涼介は、きっと同じ反応を示すだろう。『抵抗するのが疲れる』という理論に基づいて、拒むことはしないだろう。後腐れさえなければ、それで問題ないと、たとえ誰であっても言い切るだろう。
 ──イヤだ、そんなの!
 自分じゃない誰かと、涼介が──と、想像するだけで、吐き気がするほど嫌になる。拓海の中で凶暴な感情がムクリと鎌首を擡げる。
 が、それを涼介に向かって吐き出すことなど、できはしない。
 かといって、自分以外の誰かを見つめる涼介がいる、なんて耐えられない。
 ましてや、涼介に想いを馳せ、その滑らかで綺麗な体を自分以外が貪るシーンなど、考えるだけでゾッとする。自分以外の人間への、嫉妬どころか憎悪すら芽生える。
 理屈なんか、何もない。
 独占したいのだ。高橋涼介を。
 ──涼介さん。オレは、あなたが………
 言うきっかけを、涼介は与えてはくれない。
 それでも言いたくて、信じてほしくて、けれど涼介は全く受け付けない。
 そんな彼の気持ちを知りたくなって、だから、拓海は時折訊くのだった。
 行為が終わればなかなかこちらを向かない涼介をじっと凝視し、その裏側の気持ちまでも透かし見ることができたら、と切に願いつつ。
 奥から溢れてとまらない感情を、無理矢理ひた隠して、冷静さを装って。
 『どうして、オレと寝るんですか』
 ──どうか、いつもと違う答えを、聞かせて下さい。
 振り向かない彼の横顔を見ながら、訊く。
 …内心では、祈りを込めて。
 『何とも思ってないオレとでも、寝るんですか』
 ──少しは否定して下さい。………冗談でもいいから、どうか──
「冗談でも…言ってくれないんですか…涼介さん………?」
 シーツを撫でていた手のひらに伝わる、彼の僅かな温もりを逃すまいと、拓海はグッと拳を握り込む。
 項垂れた拓海の瞳は傷を負っていても、濡れてはおらず。
 変わらぬひたむきさで、たった一人の存在だけを渇望していた。
 得られぬものと、知りながら。
 
 
 
 
 あの時。
 酒と、相手の存在に酔っていた、初めの一夜。その後。
 『…涼介さん………オレ………………』
 真剣な瞳を潤ませ、泣きそうな顔をする拓海に、体に残る痛みを堪えるように涼介は微笑んだ。
 『気に…するな。何でもないから…これくらい』
 瞬間、拓海の中の時間が止まったのを、涼介が気付いたかどうか。
 『………「何でもない」? って…どういうことですか………』
 暫く黙りこくった後の拓海の声は、幾分か震えていた。
 『「これくらい」って………何ですか。寝たんですよ? オレと涼介さん。なのに…何でもないことなんですか………涼介さんにとっては』
 『藤原…』
 否定の言葉を期待する拓海と、思わぬ誤解と反駁に遭った涼介と。
 どちらもが、一瞬、次の言葉を失った。
 そして、その沈黙を肯定ととった拓海と、更なる誤解をされたと察した涼介と。
 ショックを隠せず、二人はまたも二の句が告げなかった。
 
 この時から、歪みが生じていた。
 歯車が、噛み合っていなかった。
 言いたくて、だが場の雰囲気から言わずに飲み込んでしまった言葉は、その後も発する機会がなかった。
 それが今でも、心にひっかかっている。
 
 
 
 これからも交わることのない平行線なのか、と思うと胸が締め付けられる。
 同じ苦しみを耐えているのが自分だけではないのだと、気付くこともなく。
 
 それでも時は、平等に刻まれていくのだった。
 終わりのない時を──



終     

   

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