そのままで-6- 

2001.11.22.up

 答えずに黙っていると、もう一度、藤原、とやや強く呼び掛けられて、拓海は躊躇いがちに視線を涼介へと戻した。
 涼介の焦れた声の響きに、怒っているのかもしれないと密かに思ったが、とりあえずこれ以上彼の不快感を募らせたくはなくて、顔を上げざるを得なかった。
 すると案の定、彼は声音通りの気難しい表情で、こちらを見つめていた。夜闇の濃い陰影を落としている白い端正な顔立ちは、艶めいていてより一層優美さが際立ち、こんな状況でありながら、拓海はつい見惚れてしまう。
 だが、どんなに格好良く綺麗に見えようとも、怒りの焔は見紛うことなく彼の中にある。闇に紛れているせいか、影を帯びた顔は、ほんの少し哀しみを含んでいるようにも見える。
 そんな涼介を前にして、常以上に忙しく稼働中の拓海の心臓は、先程までとは少し種類の異なる緊張感に、尚も鼓動を速めていた。涼介が自分に対して一体何を言おうとしているのか全く予測できないからこそ、逆に拓海の全てに対して憤っているようにも見えて、拓海は徐々に息苦しくなっていく。
 そんな状態を見透かすように涼介は目を眇め、こちらをジッと見た。
「………今の…」
 その涼介の形の良い唇が静かに、ゆっくりと動いた。
「──もういいって、どういう意味だ? 本気で言ってるのか、それ」
 厳しい顔で、一際低い声音ときつい視線に責められて、拓海は答えられなかった。
 涼介が今、不愉快な気分でいるというのはよくわかる。だが、拓海の台詞の何がどう不満で、どうしてそんなことを訊くのか、拓海には察することができない。
 涼介の怒りは、単純に男の拓海に告白されたからという不愉快さだとは思えなくて、それが更に拓海を混乱させていた。
 拓海の無反応を、ある程度想定していたのだろう。涼介が次の言葉を発するまで、殆ど間はなかった。
「自分の気持ちを言って、それで終わりか? …違うだろう。普通は訊くもんじゃないか? …自分のことを、どう思ってるのか。なのに…それもなしじゃあ、オレはどうしたらいい? オレに、どうしてほしいんだ。何も言わずに、藤原の言ったことを聞き流せとでも言うのか。それとも暗に、…オレの気持ちは知りたくないと言ってるのか?」
 流れる矢継ぎ早の問い掛けは、責めているのみならず、まるで答えを急かすかのようだった。
 それでも口調に乱れはなく、語られるしっとりとした涼介の声が、空気を微かに震わせ、拓海の鼓膜から体の内部へと緩やかに浸透する。苛立った響きがそこには含まれていたが、気付いても拓海にはどうすることもできない。拓海の何に対して涼介が苛立っているのか、わからないからだ。
 だが、少なくとも、涼介が言っているような気持ちが、拓海の中にあるわけじゃない。だから、そんなふうに誤解されたくはない。
 間違った解釈をされることだけは避けたいと、切実に思う。なのに、どうしてだかこんな時に限っていつにも増して言葉が出て来ず、拓海は涼介を見上げながら、もどかしくも首を左右に振った。
「………んなコト、思ってもないです…。…だけど…オレ、涼介さんに言おうって…ただそれだけで………。他には別に、本当に何も…っ………」
 口ごもってしまった拓海に、涼介は続けて問う。
「『何も』? その先は何も考えてなかった? …オレに言うだけで満足だって──本当に…それだけなのか」
 その問いに、拓海はややあってから、躊躇いがちにコクンと頷いた。
 本当に…涼介の言う通り、先のことは何も深く考えなかった。
 伝えること自体が目的だったのだから、それで終わり──他のことなんか考えるだけ無駄だと思った。涼介の負担にならないような言い方をと、気を遣いはしたが、それだけだ。それで満足なのかと問われるとそうとも言い難いが、少なくともそれ以上を望みはしなかった。
 そもそも、この前の涼介との会話が拓海の脳裏にこびりついて離れなかったのだ。
 つい先日、涼介本人から聞かされた、忘れようにも忘れられない事実。
 ──涼介には、片想いの人がいる。
 また、心臓がしくりと痛む。
 だから拓海は、敢えて考えないようにしていたのだ。自分がどう頑張っても、どう足掻いても、自分の想いが報われないという現実は動かせないのだから。
 先日に涼介が言っていた『伝えたら案外上手くいくんじゃないのか』という台詞は、拓海じゃなく、本当は涼介自身に言えることだ。涼介が想う相手に告白すればあっさり恋人同士になるんじゃないかと、拓海は思う。
 一方、拓海の首肯と、俯き加減のままじっとしているその様子を見て、涼介は何を言うべきか、しばし迷っていた。
 十分に時間を掛けて迷ってから、口を開く。
「…じゃあ。今からでもいいから、考えろよ」
 どういうことですか、と訝しげに目線を向けてくる拓海に、涼介は背を預けていたシートから身を起こした。
 涼介の表情が、心持ち、硬い。
 どこか緊張気味であることが、拓海にも伝わってくる。涼介のそれが移ったかのように、拓海もさらに緊張してしまい、ドキドキと胸を高鳴らせた。
 改まって、涼介は一体何を言うつもりなのか──拓海が落ち着いて考える隙は、いくらもなかった。
 涼介が姿勢を変えたことで少しだけ互いの体が接近し、漆黒の瞳が拓海を捉える。その闇色に吸い込まれそうだ、と思った瞬間。
「オレも…藤原が好きだと言ったら、どうするのか………今すぐ考えろ」
 掠れ気味の声音が、ほんの一瞬、時間を止めた。
 今日何度目になるのだろう、ドクンと拓海の心臓が、大きく音を立てて跳ねる。
 ──何てコト言うんだ、この人はっ!?
「…なっ、何言ってんですか…!?」
 心の叫びは、そのまま言葉になって出てしまう。
 完全に、拓海はパニックに陥った。
 ──考えられるわけないだろ。絶対あり得ないことなのに…!
 そう思う端から、そんな夢みたいなことを信じたいという己の浅ましい願望が沸いてくる。真実であるはずがないのに、涼介の言うことが真実か否か──ぐるぐる回り続ける拓海の頭の中は、ショート寸前だった。
 最早、思考と言動は分断され、それぞれが勝手に暴走してしまっている。
 混乱の極みで、拓海はわめくように反論した。
「や、めて下さい………そんな…思わせぶりなこと、言って………一体、何考えてんスか? 『もしも』なんて仮定、したって意味ないでしょう…!?」
 涼介の言っていることは、仮定に過ぎない。『もしもそうだとしたら』という、あくまでも仮定形なのだ。
 ある意味、酷くないだろうか? 玉砕を承知で告白した拓海に向かって吐く台詞とも思えない。
 信じられない、と拓海が身勝手にも半ば裏切られた気持ちで彼を見てみれば、しかし、涼介にふざけた様子など微塵もなかった。
 真摯な瞳が、変わらず拓海を見つめている。
 交わす視線は、ウソではないと主張しているかのようで。
 まさか、と拓海は期待せずにはいられなくて、顔が火照ってくるのを抑えられなかった。
「…仮定なんかじゃないよ…。…本気でなきゃ、こんなこと言わない」
 涼介の口調は熱を帯びており、そしてきっぱりとしたものだった。
「好きだ」
 ──…ほ、本気って、何。何のことだよ、一体。『好きだ』って? 涼介さんが? 一体、誰を。
 ………って、オレ!?
 理解したのと同時に、全身がカッと熱くなった。
 拓海の許容範囲を遥かに超える現実に、心臓が悲鳴を上げる。血液が沸騰しているかと思うほど、顔が熱っぽくて、目まで潤んできそうだ。酸素は十分足りているはずなのに、ひどく息苦しくて、思わず胸辺りの服を鷲掴んでいた。
 息がせり上がって喉も渇き、喋りづらいことこの上ない。けれど、涼介に直接確認したいことが拓海にはあった。
 万一、いや、億分の一でも、今の涼介の言葉が本当だとしたら、『誰にも言うな』と自分に口止めまでしたアレは、一体──?
「…な、なんでオレ? だってこの前、片想いって…涼介さん、自分で言ってたじゃないですか!」
「…………言ったな、そういえば」
 涼介がツンと顎を逸らしてそっぽを向き、ムッツリと呟く。
「それが藤原だとは、言わなかったけどな」
 その涼しげな目元は、うっすらと赤く染まっていた。耳はもっと赤い。夜目にも明らかなほど。
 拓海は、バカみたいに”あ”の形で口を半開きにしながら、体を硬直させた。
 涼介のそんな照れた様子を見るのも、初めてなのだ。
「だって…それじゃあ………」
「…なのに、お前ときたら、自分が言ってスッキリしたらあっさり自己完結して、オレの返事なんかどうでもよさそうだったし」
 これには、反論の余地がない。
 拓海が黙っていると、涼介の恨み言は更に続く。
「………オレは嬉しかったのに、…オレには何にも言わせてくれないで」
 ムスッとした表情で伏し目がちにそんなことを呟く涼介は、どこをどう見ても拗ねているようにしか見えない。朱を帯びた頬も、まだ元の色には戻っていなくて、拓海は自分にまでその火照りが飛び火するのを感じた。
 涼介の言う言葉はどれも、それだけ拓海を好きなのだと告げているようなものだったりするのだ。
 ──聞いてるこっちが、顔から火が出そうなくらい、恥ずかしいんですけど………。
 わかってて言っているのかと訝しむが、…どうも涼介は、自覚なしに思うまま言葉を連ねているみたいだった。
 どうしよう、と拓海は思う。たまらなく幸せで、だけどこんな予想外の展開に、次に何を話せばいいのかわからない。
 元々、拓海の本日の予定としては、涼介と連絡を取り、直接会って想いを告げるというだけのシンプルなものだったし、後のことは、涼介にも告げた通り、深く考えなかった。
 こういう事態に対応できるほど、拓海は場慣れしているわけではないし、順応性に長けているのでもないのだ。
「…で? 藤原。………黙ってないで、そろそろ何か言ってほしいんだけど…」
 ジトッと、声音同様、恨みがましい視線を涼介から送られ、拓海は、今までにないほど困り果てた。幸せすぎて、困る。
 結局、途方に暮れた顔を隠すことさえできずに、心の中で白旗を掲げ降参し、救いを求めて涼介を上目遣いで見上げてしまった。
「………………こういう時、どうしたら…いいんですか…?」
 拓海とて、精神的にもわやくちゃな今、自分が相当情けない姿を曝しているのは百も承知だ。だが、涼介を前に取り繕うことなど、できやしない。
「…オレ、どうしたらいいですか…? 何、言えばいいのか………。だって、こんなの…考えてなかったし、なんか、すげー頭ん中めちゃくちゃで…ワケわかんなくて。………もうオレ、今何喋ってんのかも…全然…──」
 言ってることが全然日本語になっていない。今のこの気持ちを上手く伝えられないことが、悔しくてならなかった。
 しょうがないじゃないか、と自棄くそになって開き直る。
 ずっと好きだった人が、同じように自分を好きでいてくれた、なんて──やっぱり夢なんじゃないかと、思う。
 この現実が、俄には信じられない。
 けれど、そんな拓海を見て、涼介は小首を傾げ、困ったように微笑む。
「どうしたら、って………特に、何も」
「え、…でも…」
 戸惑う拓海を後目に、だから、と続けた。
「そのままでいいんだって。…混乱してるならしてるで、ホントに何でも、さ…」
 だから、何でもいいから言えよ。
 そう続け、それでも狼狽えている拓海に、涼介は照れくさそうに笑う。
「藤原が藤原だったら、オレはそれでいいんだ」
 柔らかく、慈しむような優しい視線と、その言葉に、拓海の心臓が不規則に脈を打つ。
 すごく、すごく嬉しい。
 語彙のない自分ではそんな言葉しか思い浮かばないが、心の奥が暖かい何かで満たされるような──この感覚は、涼介の台詞と共に過去に覚えのある感覚だ。以前にも、同じようなことが、一度あった──
 鮮明に思い出せるそれに、拓海は火照ってくる顔を涼介から背けるべく下を向き、片手で表情を隠すようにしてごまかした。
「…涼介さん」
「ん?」
 顔を半分隠していたはずの手にサラリと当たる、やや長めの前髪を、拓海は軽く指に絡め、くしゃっと握り締める。
 そのまま目を伏せ、小さく呟いた。
「………それ、二度目」
 涼介がこちらの様子をじっと窺っている気配を感じつつも、何だか無性に気恥ずかしくて、俯いた顔を上げられなかった。
 が、取りあえず、言い掛けた台詞は最後まで言わせてもらうことにする。
 せっかく涼介が、何でもいいから、と言ってくれたのだし。
「…涼介さんは、覚えてないかもしれない………。大分前…Dの遠征が始まる前にも、涼介さん、今と同じこと…オレに言ってくれたんですよ。あの時と今とじゃ、意味が違うんだろうけど………オレ、そんなふうに言われたの初めてで、なんか…びっくりして、…でも、すげー嬉しかった………。あの時に、涼介さんのこと………好きになるかも…って、ちょっと思ってた…」
「藤原…」
 拓海は、羞恥の余り真っ赤になった顔を見られないよう、真下を向いた。
 やっぱ言うんじゃなかった、と心中のたうち回りながら、涼介の反応を待つ。
 すると、暫く経って、涼介が軽く苦笑を漏らす。
「まさか…藤原が覚えてるとは思わなかった」
「え…っ?」
 思わず拓海が面(おもて)を上げると、涼介のはにかんだ微笑みとぶつかる。
「…意味は、違わないよ…大して。あの時も、今も………気持ち的には同じようなもんだから」
「………涼介さん…? あの………つまり、それ…──」
 どうしても決定的な言葉を聞きたくて、更に突っ込むと、涼介は所在なさそうに、絡ませていた視線を外して、早口にぼやいた。
「………………あの時はもう、オレはお前と違って、『かも』なんて曖昧な認識じゃなかったんだよ、既に」
 言わせるな、と睨む涼介だったが、視界に入ったのは、見事なほど赤く染まった拓海の顔だった。
 可愛いと言えば可愛いが、少し気の毒にも思った涼介は、残念だが凝視するのはやめることにする。
 そして代わりに、言った。
「………顔、赤いぞ、藤原」
「…涼介さんもね」
 停止したクルマの中でエンジンを温めたまま、お互いにシートに深く腰を掛け、朱に染まった顔を向き合わせはしないで、二人して視線だけをチラリと相手に送る。
 それだけでも、少しはわかるものだ。表情も、そして、内側に流れている感情も。
 最も脆い部分を曝け出していることが妙に恥ずかしくて、きちんと正面切って向き合うのはもうちょっと先に延ばしたかった。
 互いの心は、きっちり受け止められているはずだから。
 
 
 


 飾らないで、ありのままを──
 そういう意味を込めて、涼介はそのままでいいんだ、と言って拓海に笑った。
 それは、変わるな、ということじゃない。
 自分らしさを失わないでほしい、と。
 その"らしさ"が好ましいと。
 そう言ったのだ。
 
 あなたがあなたでいてくれたらそれでいい──なんて。
 そう言えるくらい、懐が深くなれるように。強い心を持てるように。
 そう言ってくれるあなたの隣に、自分がふさわしく在れるように。
 そんな思いが心に溢れ、拓海は無意識の内に口を滑らせていた。

 すると。
 涼介は嬉しそうに微笑って、こう言った。
 
「…期待してるよ」
 
 マイペースを保ったまま。
 拓海が追い付いてくるのを待ち望むかのように。



終     

   

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