乾いた唇が、そっと押し当てられる。
柔らかい涼介のそれは、少し冷たかった。
そして合わさる唇の表面をチロリと舐め、そのまま離れていく、気配。
拓海は、違う、と思った。
「………涼介さん…違う………」
「え…?」
まだ互いの息が当たる距離。温かい吐息。
拓海は目を開けて、離れようとしていた涼介の頬を両手でしっかり押さえ、うっすらと綻んでいる唇に、もう一度自分の唇を重ねた。
…触れられるのと、自ら触れるのは、やっぱり違う感じだった。
そのまま緩んでいる歯列を舌でそろりと辿る。奥に分け入ってもいいものか躊躇していると、誘うように涼介の舌が戯れてきた。それに応えるように追いかける。
触れて絡んでは、離れる。
互いの柔らかな口腔内で、追って、追われて…その繰り返しに夢中になる。
どくどくと脈打つ鼓動は早鐘のようで、混じった唾液は飲み込みきれずに拓海の口の端から伝い落ちていた。それが首筋へと伝う感触も、興奮を煽るものでしかなかった。
息苦しさも、何の妨げにもならない──のだが。
「………ん」
微かに漏れた低い呻き声に、ゾクリと鳥肌が立つ。
と同時に、拓海はハッと我に返った。
ぱちりと目を見開く。
そうっとそうっと口づけを解いてから、涼介を捕らえていた自分の両手をゆっくりと離す。
そして、拓海は空いた両手で、今度は己の口元をパッと塞いだ。
──な、な、何っ!? 今の、すんげーヤらしいキス………
いや、それよりもだ。
──オレ…どうかしてた………! どうしよう…涼介さんに、こんなこと………
先程の興奮も冷めやらず、穴があったら入りたい気分で、拓海が真っ赤に染まった顔で涼介を窺うと、涼介もまた、こちらを向いて片手で口元を覆っていた。目尻は、ほんのりと赤みを帯びている。
暫し、視線が絡み合う。
すると、涼介が手をそのままに、ぼそりと呟いた。
「………………予想外の展開だ」
「えっ!? 何ですか………っ?」
大胆なキスをしておきながら、赤い顔で泣きそうになっておたつく拓海に、涼介はおかしくてくすくす笑ってしまう。
「いや、何でもない。──そろそろ戻ろうか」
拓海は、ちょっと呆気にとられた。
…いくら寛容な涼介でも、怒るとか、呆れるとか、そうでなくても普段通りとはいかないだろう、とそう思っていたのだ。
だが、涼介は変わらぬ微笑みを向けてくれる。
それが嬉しくて、拓海はコクリと頷いた。
「…涼介さん。あの…オレ………さっきのは………」
俯いて小さくぼそぼそと話す拓海を、涼介は足を止めて振り返った。
拓海は、行きは隣を歩いていたのに、帰りは涼介の後ろを歩いている。精神的に打撃を受けたのだった。………いろんな意味で。
「ああ…、オレは最初に言った通り、嫌じゃなかったけど。………藤原は嫌だったのか?」
返事は言葉にできず、俯いたまま拓海はぶんぶんと首を横に振って答えた。
──嫌どころか、気持ちヨくて理性が飛んでた………
本音はそんなところだ。…とても涼介に言えやしない。
「…だよな。二回目はお前が仕掛けたんだしな」
笑いを含んだその台詞に、拓海はボッと顔から火を噴きそうになった。
それでも、これだけは言わないといけない、と思うことが一つあった。
涼介は笑っていつものように接してくれるが、その優しさに甘んじて自分の狡さを見逃してはいけないと、拓海は思うのだ。
「……… だけど…オレ、すげー不謹慎だった………。いくら…涼介さんがいいっつっても………、自分の気持ちわかんなくて、興味本位で試したりとか、んなことやっちゃダメだったのに………」
すいません、と頭を下げようとする拓海を、涼介は遮った。
「謝るなって。その点ではお互い様なんだから。…それで、試してみて、少しでも何かわかったのか?」
優しい声音に誘われて、拓海はようやく涼介の顔をそろりと見上げた。
眼差しが柔らかくて、どうも別の意味でどきどきして落ち着かなくなる。
「いえ…その、なんか…わかったのかどうか、自分でもよくわからないんです………」
これじゃオレ何言ってるのかもわかんねえっすよね、と小さくなる拓海に、涼介は苦笑した。
「藤原。一つ、教えてやろうか。…今の気持ちにピッタリくる言葉なんか、本当はないんだよ。………きっとな。一言二言でなんて、とても言い表せないんだろ? それならそれで、たくさん言葉を尽くして言えばいいんだが、思いつかないと今のお前みたいに『わからない』ってことになると思うんだ。…でも、中には一番真実に近い適切な言葉が一つくらいあるから、今からでもじっくり考えてみろよ。それが、もしも見つかったら………」
「…たら?」
「オレに教えてくれ。待ってるから」
言って、涼介はにこりと微笑んだ。
拓海は、返答する前に少し考えてみた。
………自分は喋るのが面倒で、語彙も少ない。考えるのは苦手だし、理屈じゃなく感覚で動く自分に、そんな言葉が簡単に見つかるとも思えない。そして仮に見つかったとして、当の本人に向かって言うのはこっ恥ずかしいんじゃなかろうか?
しかし、そういうことを全て理解した上で、涼介は言っているのだろう。単純な自分のことなんて、お見通しなのではないかと思う。
…もしかしたら、拓海のこれから見つける、その答えも。
拓海がそっと涼介を見上げてみると、赤みがかった唇に目が行ってしまい、トクンと胸が大きく波打った。
先程触れ合った、それ。
そうなるきっかけは、涼介との会話。
けれど、どちらかだけの意思ではなく、己の思いもまた、その動機となったのだ。
涼介に向かう心。
気になって、知りたいと思って。
『好奇心』や『興味』には違いないけど。
他に、もっとピッタリな言葉がある。
そう言われて、これから考えるけど。
それは案外、早く見つかりそうだった。
今の気持ち。
その名前。
「オレ…今、一つだけわかってることがあるんすけど」
これってフライングだろうか、と思いながら、拓海は速まる鼓動を宥めつつ、今咄嗟に言いたくなった言葉を言うために、息を吸い込んだ。
終
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