せつない夜 

2000.10.10.up

 夜。
 辺りは静まり返り、闇と静寂に支配される、深夜。
 窓から漏れる灯火は、門戸の脇に据え付けられた外灯のみ。
 寝付けない夜は、決まって、窓の片側の縁を背もたれにして桟に腰を下ろし、肩越しに闇色の外の景色を見ることにしている。
 ブランデー入りの薄い紅茶を手に、涼介は庭の暗緑色の木々をぼんやりと眺めた。
 半分開け放した窓から、ひやりと涼しい風が、思い出したように頬を撫でる。
 夜の風は冷たく、そして優しかった。
 


 ──厄介だな。
 涼介は、とある人物のことを思い描いていた。
 たった一人を思うなど、今までになかったことだった。
 一つのことに集中することは元々得意だった。だが、『物事』ではなく『誰か』に特別に執着することはなかった。
 それに伴う最近の感情の変化も、当然のことながら、涼介にとっては正真正銘初めて経験するものだ。
 あまりに浮き沈みの激しいその感情は、過去に感じたことのある気持ちと違って、コントロールが効かない。
 ──消えるどころか、強くなってきている。
 その人物に向かう気持ちが。
 感情を押し隠せる絶対的な自信は、涼介にはある。が、こうまで翻弄されるのも困りものなのだ。
 涼介は、無意識のうちに、何度めともつかない溜息を小さく吐いた。

 
 * * *

 完璧主義だと、涼介を指して、人は言う。
 だが涼介自身は、そう思ったことは、あまりない。
 自分に課せられたすべきことと、自分のしたいこと。一日二十四時間という枠は古今東西普遍であり、その枠の中で人間はあらゆることを行う。どうこなすかも、対する力のペース配分も、その人次第。誰がどこで何に対して全力を出しているのかは、当人にしかわからない。
 涼介は、自分の満足のいくようにやっているだけだった。ただ、自分の場合、偶々他人の目に見えるようなわかりやすいところに、結果が顕著に出ている。それだけのことだ、と涼介は思う。
 また、端から見て窺える涼介の完璧さを、流石だと、人はもてはやす。
 涼介は、それには内心苦笑で以て答えていた。
 自分に関して言及するならば、そう褒められたものではないと思うのだ。
 他人が言うほど、すごいことではない。結局涼介は、己のしたいことしかしていなくて、抜けるときには力を抜いて。言うなれば、したいことに関してのみ全力を注いで貪欲なまでに完成度の高さを求めているけれど、それ以外では、適当に他とのバランスを取って遜色ない程度にこなしているだけで、必要以上のエネルギーを費やすことはしない。もちろん、やるからには、ある一定のレベルは絶対クリアさせるが。
 そういうのは完璧主義とは言わないんじゃないか、と涼介は考えていた。
 だがその考えを、涼介が口にすることはなかった。実際に自分の価値を客観的に見て決めるのは他人なのだから、その判断や価値基準にケチをつけることは憚られるし、とやかく言う権利も自分にはない。そもそも、けなされているわけではないのだから、まだマシだと言えよう。
 ………今ではもうすっかり慣れてしまったが、実は、そんな扱いは決して居心地がいいものじゃない。
 他人との距離が、遠く感じられるからだ。
 遠巻きにいる連中は、騒ぐだけである一線から先へは踏み込もうとはしない。近くにやって来る者は、レッテルという名の色眼鏡付きで、涼介に理想を透かし見ている。
 越えようとすればするほど、厚く感じる透明な壁。二歩近づけば一歩退かれ、二歩でようやく一歩の距離。
 なかなか壁は溶けず、距離も縮まらず。
 それは即ち、婉曲な拒絶だ。よく知りもしないうちから、そうやって無意識に拒まれる。
 だからこそ、本当の意味で誰かと親しくなるのに、涼介は人の倍以上の時間を要するのだった。
 おかげで人の好みにうるさくなってしまい、誰かに入れ込むことなど滅多にない──のだが。
 今の涼介には確実に一人、そういう人間が存在している。
 それは、先程からずっと脳裏に描いている人物-藤原拓海-のことだった。
 ──あいつは…オレにとっては………遠い。
 彼は、涼介率いるプロジェクトDの一員で、当然ながら涼介の近くにいる存在だ。話す機会も、Dが始動してからは格段に増えている。
 だが、いつまで経っても、涼介を見る彼の瞳には必ず、過ぎるほどの尊敬と憧憬が浮かんでいた。涼介に自分の理想をあてがっているのでもないようなのに。
 涼介は、それが嫌だというわけではなかった。チームリーダーとしては、歓迎すべきことでもあった。
 拓海の眼差しは、態度も含め、遠巻き連中によくある種類のものに至極似ていたが、実際は非なるものだと知っている。何しろ、他人の意見に左右されず、自分の意思やスタイルを頑ななほど固持する藤原拓海の目なのだ。歪みのない、純粋で、まっすぐなもの。
 むしろ、嬉しかった。
 嬉しい、のだけれど──
 と、涼介は軽く目を伏せた。
 ──だが、藤原は、自分からオレに近寄ろうとは………………決してしない。
 ツキンと胸が痛む。
 Dに関することでも、どうしてもという場合にだけ、涼介に声を掛け、指示を仰ぐ。それ以外なら、尚更近づこうとはしなかった。
 涼介がチームリーダーとしての顔を脱ぎ捨て、プライベートとして接している時でも、対する拓海の態度は変わらない。
 大概の場合、俯き加減で視線を泳がせていて、時々躊躇いがちにこちらを見ては頬を染め、ぎこちなく笑う。
 最初の方こそ可愛らしいとしか思えなかったそれも、今となっては半分焦れったくてしょうがないのだ。
 もう少し肩の力を抜いてリラックスしてくれれば、と涼介は幾度思ったことか知れない。何度かは、口に出して言ってもみた。その時は、曖昧にだったが、頷いて返事をくれたと記憶している。
 だが、結構付き合いも長くなり、程度こそ僅かに軽くはなったけれど、今でも拓海が涼介の前で自然体でいることはない。…意図的ではないにせよ、他のメンバーの前では見せる姿を、涼介には見せない。
 そういう意味で、涼介からは、拓海は遠い存在だった。近くにいても、親しくはない。話している瞬間だけ近くなったかに思えても、その感覚はその場だけで持続しない。
 ふう、と、自覚のないままに涼介は短く嘆息し、拓海の顔を思い浮かべた。
 拓海のほうけたような表情の中で、唯一裏切るその瞳。あまり語らぬ口の代わりに物を語る──でもないが、いつもどこかを見つめているその瞳は、時に、誰にも見えない何かを映しているようで。
 拓海のそんな様子を見る度に、涼介は思ったものだ。
 何を見て、何を考えているのだろうか──そこから始まった、興味だった。ドライバーとしてではない藤原拓海への。
 それが、いつの間にか、こんなにも囚われている。
 抜群のドライブセンス。自分の掲げる理論を実践できる技術。魅了されるどちらの才能も、今はダイアの原石。そして、多少なりとも、その原石を研磨する手助けが、今の自分にできるという歓喜。
 しかし、何より惹かれたのは、その人自身にだった。
 理屈ではない。
 …どうしても、もっと知りたいと思う気持ちをとめられない。
 ──藤原が、オレのことを知りたいとは思っていなくても…な。
 そう考えると、キュウと胸が絞めつけられる。
 最近は、深く考えずとも、拓海のことを思い出すと胸がツキンと痛むのだ。
 感情を伝える術がないからこそ、余計なのかもしれない。
「…重傷だな」
 声に出して、自嘲した。
 そっと目を閉じる。
 ──プロジェクトが終わった時には、この感情も何らかの形で昇華されるだろうか。
 一瞬でもそんなことを考えて、そんな都合良くはないか、と涼介は苦笑した。
 自分には、土台無理な話なのだ。
 どれだけ微笑んでみても、いくら優しく接しても──どうしたって拓海の緊張を緩めることのできない自分。
 自分に好意を抱いてくれていても今以上に親しくしようとは考えていない拓海に、惹かれていく自分。
 涼介は、そんな己の不器用さをよく理解していた。
 だからこそ。
 ──これくらいなら、叶えてくれるか?
 望みはささやかなものだった。


 *  *  *

 閉じていた目をゆるりと開け、ぬるくなった紅茶を一口含む。
 肩越しに見える暗色の緑。
 空を見上げても、灰色の雲に覆われて、星の光はあまり見えない。
 それでも、この空を、どこかで誰かが同じように見ているはずだった。
 時空を越えて、全世界共通の、もの。
 もしかしたら、今宵、自分と同じような想いを抱えている人も、同じ夜空を見上げているのだろうか、と涼介は思いを馳せた。
 感傷的に過ぎる、とはわかっていたけれど。
 
 眠気が襲ってくる気配は、なかった。





 ──一度で良いから、オレの前で、飾らない普段のお前を見たいんだ──


 そんな、望み。
 未だ叶えられていないそれを、もう一度、心の中で唱えてみた。



終     

   

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