あなたを思う夜 

2000.9.19.up

 スウッと、自然に意識が表層へと浮上する。
 ゆるりと目を開き、まず最初にぼんやりと視界に映るのは、見慣れた天井──ここは、自分の部屋だ。
 拓海は、数度瞬きを繰り返し、きょろきょろ辺りを見回した。
 ──真っ暗だけど、今何時? 夜明け前? それとも………深夜?
 うたた寝するつもりが、ぐっすり眠こけていたようだ。自分は。
 ──午前1時45分。
 枕元の時計をやっと探し当てて見てみると、そんな時刻だった。
 日付は変わっているが、夜更けである。
 ──すっげー中途半端………
 そう思い、溜息を吐いた。
 目はすっかり冴えてしまった。
 特に何かすることもしたいこともなく、だからこそ半端だと、拓海は思った。

 今日…いや、昨日は土曜日でバイトもなく、午後はフリーだった。…のだが、残念ながら予定は何も入っておらず、拓海は自分の家でダラダラと過ごしていた。
 ついウトウトして、日がさほど暮れてもいないのに、勢いベッドに寝そべったというのは、マズかったかもしれない。…今にして思えば。
 いつから眠ったのかわからないが、頭がやけにすっきりしている。これはおそらく、相当寝入ったのではないだろうか。
 ──きっと、7時間はゆうに寝てるよ、オレ。
 しかも、きっちり服を着込んだまま寝たせいか、体の節々がだるい。
 けれど、全く眠気はない。夜はまだ明けないというのに。
「…なんか、全然寝れそうにない………。何してようかなー………」
 珍しくも、眠気はキレイに吹っ飛んでいる。しかし、端から見れば、拓海の惚けたツラは普段とちっとも変わらず。
 親友のイツキがここにいれば、まだ寝ボケてるだろーとでも突っ込みたくなるような表情で、拓海は時間つぶしのネタを、使用頻度の低い脳味噌で考え出した。


 ──………あ、そういえば。
 不意に、ポンと脳裏に浮かんだのは、何故だか涼介の顔だった。
 高橋涼介。
 彼からまず連想するのは、非常にインパクトのあった薔薇の花束と、添えられていたメッセージ。即ち、拓海へのダウンヒルバトルの挑戦。
 つい先頃受けた一風変わったその挑戦状は、洒落たつもりだったのだろうか。ともかくも、ごく普通に考えれば、気障ったらしくて鳥肌が立ちそうなものだ。だが、あの人が贈ってきたのかと思うと、それはそれでしっくりくるから、不思議に感じる。
 しっくりくる、だなんて。拓海自身、彼のことをよく知りもしないのに、何だか妙な話なのだが。
 それでも、妙だと思えばこそ、強烈な印象を拓海の中に色濃く残した。
 ──あのバトル………結果的にあの白いFCを抜いたのは事実だけど、オレが速かったっていうわけじゃないと思うのに………

* * *
 バトルの直後、どうしても訊きたいことがあって、拓海は敢えて涼介を呼び止めた。
 その時、どういう話の経緯だったか。ともかくも、彼は自分の負けだ、と言った。
 負けたと言う割には、彼の表情は柔らかく、いっそ清々しいほどで。
 そんな彼を間近で見て、この時初めて、拓海は高橋涼介という個人をはっきりと認識した。
 ──この人が、高橋涼介、さんか………
 今まで、涼介と接する機会は、数少ないけれど幾度かあった。が、彼は赤城の白い彗星だの、公道のカリスマだのと呼ばれる人で、自分との接点も今後はないだろうからと、他人事のように思っていた。対岸のことみたいに、まるで遠かった。バトル直前も、直接話したのにやっぱり遠くて。
 けれど、バトルの終わった今、この瞬間。
 ストンと自分の中に入ってきた。拓海は、そんな気がした。
 ──この人って、こういう人なんだ。
 『こういう』がどういうことを示すのか、自分でもわかっていなかったが、拓海はこの時そう思ったのだった。
 と、同時に。
 話は終わったとばかりに帰りそうになった涼介を慌てて引き留め、自分が速かったんじゃないと言おうとして近づいた途端、一気にカアッと頬が火照った。
 ──すげー…かっこいー………
 拓海は思わず、言いかけた言葉を一瞬飲み込んでしまった。
 走り屋としても男としても誰もが憧れるという、高橋涼介。その噂は、ミーハーで情報通のイツキから耳にタコができるくらい、随分前から聞かされていた。
 曰く。走り屋で、クルマを操れば名実ともに最速で敵なし、ずば抜けて容姿端麗で、さらには頭脳明晰の、未来のお医者様である──と。
 しかし、噂は噂。拓海は、イツキの言うことを信じないわけではなかったが、高橋兄弟のすごさを説明されればされるほど、遠い世界の人なんだという認識を深めた。いつだって大げさなイツキのことだからと、話半分に聞いてもいた。
 そして、今。
 大人びて落ち着いた雰囲気を纏う彼は、拓海の目の前にいて、カリスマの名にふさわしく佇んでいる。拓海に呼び止められた訳を、綺麗な瞳で問いかけながら。
 百聞は一見にしかず、という格言を、拓海は身を以て知った。
 誰かと相対していてこんなにも赤面してアがるのは、拓海にとってはこれが初体験だ。
 ──イツキ、ごめん、信じてなくて。お前の言う通りだった。
 とにかく変なことを口走らないように、と一所懸命に言葉を綴り終えると、涼介はフッと笑みをこぼした。
 綺麗に微笑まれて、拓海の心臓はますます落ち着きをなくした。
 元々、涼介のあまりに整った顔立ちは近寄りがたく、どこか冷たい印象を与えるほどだ。無表情であれば、尚更である。
 だが、ほんの少し微笑むだけで、その印象がガラリと変わるのだ。
 劇的に。
* * *


 …その時のことを、拓海は鮮明に思い出した。
 途端、うひゃあと心の中で叫びながら、ベッドの上でゴロゴロ左右に転がってしまう。
 ──あんなん、ぜってー反則だよーハッキリ言って!
 自分だって同じ男なのに、どうして涼介の微笑みにクラリとしなくてはならないのだろうか。どうして思い出すだけで、ドキドキするんだろう。それよりも、それほどのかっこよさを身につけている彼がいけないんじゃないか。
「もー…何でああいうヒトがいるかなー………」
 全てが、最上級のヒト。
 何においても、完璧に近いヒト。
 加えて、笑顔だって至上最強だ。
 少し眦の上がった目元と細い筆で描かれたように形の整った唇を、僅かに緩ませるだけ──たったそれだけで、柔らかく、ふわりととても優しい雰囲気を醸し出す。
 笑顔にこんな威力があるとは、拓海は今まで知らなかった。こんなに心動かされるものなんだと、初めて知った。
 今までにも、可愛い女の子の笑顔でドキッとしたことはいくらでもあったが、けれど、こんなに居ても立ってもいられないくらいに心臓がバクバクいったことなんか、一度もない。
 ………しかも、相当ヤバイと思う最大の理由は。
「男なのにさー………オレ、ヤバすぎるよ、こんなん………」
 綺麗な微笑み。
 静かな声音。
 優しい言葉。
 頭に記憶したあの時の彼を思い浮かべるだけで、こんなにも落ち着かない。
 同時に、ふわふわと、くすぐったいような、幸せな気分を味わえたりもする。
 ──逆に、あの人が、オレを気にすることは絶対ないけど。
 …わざと自分を戒めると、少し胸が痛んだ。
 だが、望みを持たないために繰り返すことは、拓海には必要だった。
 涼介は完璧な人だから、完璧に近いから、人の助けを借りることはあってもきっと他人を当てにしない。人を必要とするだろうけど、そこまで他人に執着しない。本当の意味で、一人でいることのできる人。
 拓海はそう思っていた。誰かの存在に囚われる涼介の姿など、想像できなかった。
 ………本当は、想像したくなかった、というのが正しいのだが。
 ──…でも…憧れてんだったら、別に普通だよな? ………これだけ気になってても。
 拓海は心の中で呟いて小さくクスリと笑い、まだ眠くなかったが何とはなしに瞼を閉じた。


 視界が閉ざされると、自然に思考すらもだんだん鈍くなり。
 最後に浮かんだ思いは、意識の端に引っかかることもなく、泡沫の如く消えて。
 拓海は、ゆっくりと眠りの淵に落ちていった………





 ──好きでいるのは、自由ですよね?──



終     

   

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