好奇心 

2008.3.15.up

 普段どんなシフトを組まれても、無表情に『わかりました』と告げるこの会社の今年度の新人である藤原拓海には、随分前から予め休暇を申請している週末が月に最低一度は必ずある。それ以外の週末は仕事が入ろうともまるで気にしていない様子であるから、その新人にとってわざわざ休みを取る週末には特別な何があるのに違いないと少しは興味が湧く。
 しかし、職場で実際に直接彼に聞いた者はいない。
 詮索という下世話なものでなくとも、日常会話の中で話題に上ってもおかしくない。今度の休みはどこに行くんだ?と身近にいる人間に話し掛けるのは、ごく普通に行われていることだ。
 それでも彼の同僚も含めた社内の人間の誰も、未だに休むその理由を知らなかった。
 
 
「なあ、藤原?」
「はい」
 積み荷をトラックに運ぶその手を止め、拓海は声の主へと顔を向ける。
 入社して数ヶ月が経ち、空の青が深みを増したこの季節、いかに早朝であっても力仕事をしていればすぐにも額に汗が滲む。
 軽く腕で汗を拭い、拓海は体ごと上司に向き直った。
「何ですか?」
「いや、大したことじゃないんだけどな。お前、来週末にまた例の休みだったっけか」
「……はい」
 当たり前だが、週末というものは一般的に休日である。そのため、シフト制で年中無休のこの会社の社員であっても、休暇を取りたがる者が多い。家庭があれば家族サービスがあり、単身ならその範疇には入らないが、それでも何の用もなくても周りの空気が休日モードになってしまうと得てしてその雰囲気にのまれたくなるものなのである。
 それらのことを何となくわかっていながら、プロジェクトDの予定だけはどうしても外せないからと誰よりも早く休暇申請をしている自覚のある拓海は、今度の休暇のことを指されて幾分罪悪感を感じた。
 苦情は今まで誰にも何にも言われていない。だが、何となく申し訳ない気分にさせられる。
 その他の土日はどんな勤務を命じられても承諾しているが、それでチャラとなっているわけでもないだろう。
 ぼんやりとしたままそんなことを考えながら、この上司は何を言うつもりなのかと顔色を窺うと、お叱りの言葉を用意しているのではないようだった。
 むしろ、好意的…いや、興味津々に瞳を輝かせて拓海を覗き込んできた。
「なあ、それってやっぱ、……彼女?」
「は?」
 からかうような笑みを浮かべて、彼は自分の反応を窺っている。
「遠距離なのか? いや、あんまりにも定期的だからな、他の奴等と話してたんだ。こいつあ絶対女との約束だ、ってな。どうなんだ?」
 そういう噂話が社内のどこかで飛んでいたのか、と頭の隅で思った拓海は、違いますよ、とあっさり否定した。
「遠距離とか…そういうのとは全然違いますよ」
「ホントか? あ、そうか…遠距離じゃないってだけで、やっぱり彼女か?」
「えっ? いや、だからホントに違いますって」
 ここでそういう誤解を招いたら、絶対に他の人からの追求もあるに違いない。
 それだけは避けたくて、とんでもないというように否定した。実際、その通りなのだから。
「んじゃ一体何なんだ? 秘密主義だなぁ…」
 がっくりと肩を落とした上司は、ぶつぶつ文句を言いながら大きく嘆息した。
 その後に続いた沈黙が痛いが、真相を話す気はなかった。
「藤原って案外モテそうなのに、女っ気はゼロ?」
 案外ってつくんだ、と一瞬拓海は思った。それはさておき、モテそうだと言われてもどう反応していいかわからないから正直困る。拓海自身、過去にモテた記憶はないのだ。『お前は密かにモテてたんだぜ』なんて同級生に言われたことがあるが、そのまま真に受けるわけでもないし、第三者からの伝え聞きで自覚が芽生えるでもない。まるっきり実感が湧かないのだから、仕方のないことだろう。
 現在、女っ気が全くないとは言わないが、『彼女』と呼べる存在がいないということは事実だ。
 反応に困った拓海は、何も答えず曖昧に笑った。
 
 
 *  *  *
 
 
 拓海の携帯に登録されているのは、会社関係を除けば、イツキやスピードスターズのメンバー達とプロジェクトDのメンバーだけである。
 着信履歴も当然その人達に限られていた。
 プラス、打つのが遅くてどうも好きになれない携帯メール。その着信の数々──
 この着信メール、実は、誰かに見られたら困るシロモノばかりだった。
 ほぼ毎日、特定の人からのメールが届く。その内容は殆ど全て雑談紛い、もしくは独り言のようなもの。
 いつまで経っても携帯でメールを打ち慣れない拓海の返事は、頑張っても三通の受信に対して一通の返信なのだが、相手はそれでも不満はないようだ。
 ──何で、こんなことになってるんだろ……?
 拓海自身、本当に不思議だ。
 嫌いではない相手だから、たまに返事はする。届いたメールの内容が自分への質問なら、嫌な質問でない限りそれに答える。突っ込みを入れなければとか、或いは訂正を加えなければと思うようなら、やはり拓海はコメントを返してしまう──たった一言でも。
 そうやって繰り返されていく、メールのやり取り。
 相手のことが嫌じゃないから、というだけにしては長期に渡って続いている。
「あ」
 荷物を運び終えた拓海がトラックの運転席に行く第一歩を踏み出した瞬間、携帯がブルブルと胸元で振動する。
 胸ポケットからそっと取り出し、画面を確認すると、いつもの人物からのメール着信だった。
 呆れた笑いがつい零れてしまうのは、彼から来るメールの頻度に対してだ。マメだなあ、とその点については本気で感心している。暇だなあ、という感嘆も同時にしているけれど。
 拓海の携帯にメールを送ってくる人の名は、たった一人のもの。
 今届いたばかりのメールも含め、携帯の履歴に残るメール送受信の相手は全て『高橋 啓介』なのだった。
 
 
 
 一番初めは単なる連絡に過ぎなかった。
 たまたま都合の悪かった史浩の代わりという名目で、啓介から連絡事項が回ることがあった。その時、携帯電話になかなか出ない拓海に痺れを切らした啓介が、メールに切り替えたのである。
 連絡事項を伝えるだけなら文字で良かった筈だが、少々苛立っていた啓介の送ってきたメールには伝えるべき内容は一文字もなく、タイトルは空欄のままで本文に『メール見たら速攻電話しろ』とだけ書かれていた。
 その指示通りに、時間が空いた時にすぐ折り返した拓海だったが、電話を受けた啓介の声音は相当低かった。
 重低音が腹に響く、そんな低い声音で唸るように、「藤原」と呼び掛けられて、はい、と神妙に答える。
 すると、そこから先は口を挟む暇もないくらいに啓介に大声でまくしたてられた。こっぴどく怒鳴り散らされて、八つ当たりなんじゃないのかと不快な感情も拓海の心にかなり膨らんでいった。
 短気を起こして通話を切らなかったのは、何とか我慢して拝聴していた啓介の小言の内容が、さほど常識外れでもなかったからだ。
 むしろ、啓介の口調は途轍もなく感情的で全くいただけないが、言葉だけを咀嚼してみると、意外にもまっとうな意見だった。
 仕事の最中なら運転中なんだろうからそういう時はドライブモードにしておけだの、こまめに携帯をチェックしておけば電話呼び出しやメール受信があることに早く気付くから緊急の用事があってもタイムラグが少なくなるだの、仕事中も携帯使うだろうにそんな使い方でやっていけてんのかよだの、無反応の呼び出し音ばかり続いてると何かあったのかと心配になるだろうがだの。
 余計なお世話だと言えばそれまでだ。一々その指摘は細かすぎて、お節介、と一言で一刀両断することも可能だった。
 だが、携帯から聞こえてくる啓介の声に滲む真剣さと必死さに、拓海は咄嗟に対応できず、まごついた。うるさいな、と一方的に通話を切ることも普段から辞さない拓海だが、この時はそれができなかった。携帯を通して伝わってきたのは、一応拓海自身のために言ってくれているだろう内容と、それから多分、電話がなかなか繋がらなかったことへの不満と心配だと、何となくわかったからだ。
 だから拓海は、啓介の八つ当たりに近いそれに対し、珍しく反論せず黙っていた。
 因みに、史浩とはこんな事態に陥った試しはない。彼ならばもっとスマートな対応をしてくれるし、事情もわかっていて慣れたものだからだ。
 啓介だからこうなってしまったのだろう。
 そう思えば、ささくれ立つ気持ちも多少は治まった。それに、うるさいとはハッキリ思うし理不尽でもあったが、彼なりの親切心の現れでもあるのだろう、と無理矢理拓海は納得した。
 そうすることで、自分の心の平穏が多少なりとも保たれる。
 今回限りのことなんだから、とも自分に言い聞かせた。彼が拓海に連絡したのは史浩の代打なのだから。
 
 けれど実際、啓介とのやり取りは、このたった一回だけでは済まなかったのである。
 
 
 
「よ、藤原。お疲れ」
 黄色に輝くFDのボンネットに軽く肘をのせ、にっと笑う男前が一名、営業所前にいた。
 夜で暗くても、明るい黄色のボディカラーは目立つ。隣に立つ男と一緒ならばもっと目立つ。ここよりも薄暗い峠で彼と彼の車を見慣れている拓海には、外灯のあるこの場所なら一目で見分けがついた。
 それは同じチームで活躍している、上りドライバーこと高橋啓介と完璧なまでにチューニングされたFD。
 だが、啓介はここにいるはずのない人物だ。
 有り得ない光景に、拓海は目を見開いた。
「啓介さん? 何でこんなとこに…」
 連絡もなしに啓介に待ち伏せを食らったことがあるのは、秋名の峠だけだ。他に記憶はない。
「ナンデって、メールしただろ。お前見てねえのかよ」
「あ…」
 呆れた目で責められて、思い出す。啓介からメールが来たことは早々に確認したのに、中身はまだ開けてもいなかった。
 しまった、と思っていると、啓介の口から吐息が出る。
「はぁ〜、またかよ。もう慣れたけど。──で、仕事はもうすぐ上がんのか?」
「え、はい……上がりです。あの、もうちょっとだけ待って貰えますか」
「ああ、んじゃソコのコンビニで待ってっから」
 さっさと話を纏めると、長身を屈ませてするりと車に乗り込んでしまった啓介に、拓海は軽く頭を下げた後、小さく溜息を吐いた。
 憂鬱ではないし、迷惑だとも思っていない。
 けれど、拓海の胸中は複雑だった。啓介が自分に構ってくる理由が思いつかなくて、すっきりしない。
 Dでの活動中であるこの一年はバトルをしないと、啓介は一番最初に拓海に約束した。啓介からの一方的な約束だが、それはきっちり果たすつもりのようだ。それまではさんざん拓海とのバトルに拘っていたのに、今やバトルの誘いは一切してこない。
 拓海にちょっかいをかけるのとバトルとは関係がない。だとしたら何故、啓介はこんなふうに拓海に関わってこようとするのだろう。
 わざわざ本人に尋ねるほどその理由に興味があるわけではないので、訊いたことはない。
 あの人の唐突さにも少しは慣れたけどさ、と内心で呟きを落とし、拓海は制服から私服へと着替えるべく自分のロッカーへと向かった。
 同じく更衣室にいた上司の一人が、急いで着替えていると声を掛けてくる。
「藤原? お前さっき、ド派手な黄色い車の人と話してた?」
「…え…ああ、はい」
 返す口調はいつもと同じく暢気だが、着替える動作はかなり慌ただしい。
 待ってる、と言って背を向けた啓介はそれほど気が長くなく、待たせる時間が長くなれば小言が増えるだけだからと、拓海は急いで彼のいるコンビニへ向かうつもりだった。
「それじゃ、お先です」
 急ぐんで、とは言わなくても言外に伝わっただろうと、会釈をして足早に更衣室を出た。
 歩くというより既に小走りになっている。それもこれも、計算外の啓介の訪問があったせいだ。
 全くもう、と嘆息するが、その割に煩わしさは感じていなかった。本当に嫌なら、さっき顔を合わせた時に断っている。意に添わぬことを同情や何やらでしてあげるようなお人好しさは、拓海の中のどこを探しても欠片もないのだ。ひねくれてもいるから、素直に頷くことも少ない方だし、啓介のような直情型人間を相手にした場合には忽ち首肯の確率が下がる。
 だから余計に不思議だ。
 何故今、自分は息せききって啓介の元へ向かっているんだろうか。
 突然の呼び出しだった。強制はされていない。つまり拓海は、己の自由意思でそうしているのだ。
 …自分でも何となく、ぼんやりとだがわかっていることがある。
 単純に、好奇心なのだ。これは。
 啓介は大抵、口の端を僅かに上げて笑い、眦のつり上がった猫のような目が瞳の奧を光らせ、面白そうに拓海を見る。眼差しは鋭いが、最近は冷たくはない。
 啓介が何を考えているのか、どんな感情を伴ってそういう目を拓海に向けてくるのか。言わない啓介に、それを敢えて訊こうとはやはり思わない。けれど、拓海はそんな啓介の内面にいつしか興味を持ち始めたのである。
 昔はしつこくバトルのことを追究されたりして心底啓介のことを疎ましいと感じていたのが、彼は何も特別なことをせずして、拓海の中から煩わしいと感じていた気持ちをごっそり消滅させた。いつからなのかはわからないが、気が付けば、彼を見て感じる負の感情の一切から自分は解放されていたのだ。
 苦手だと思った人間から、苦手意識が消えたことは今まで一度もなかった。少なくとも拓海はそうだった。
 今までにないことを自分にしでかした啓介に、多分、興味があるのだ。
 
 
 コンビニが目前に迫ってきた。小さな駐車場には他の車と一緒に、黄色のFDも並んでいる。
 アッシュトレイのある場所で銜え煙草をして突っ立っている彼の姿も見えた。拓海が近くまで来ていることに、まだ気付いていない。
 派手な車とセットでなくても、啓介の存在は拓海の目に飛び込んでくる。人混みにいても、おそらく自分は彼を見つけられるだろうと思う。
 理由はない。
 感覚で動く拓海に、理屈はどうでもよく、ただ今ある現実が全てであった。
 啓介を見た瞬間にほんの少し和らいだ己の表情にも気が付かず、拓海は間近に迫った啓介へと声を掛けた。



終     

   

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