アプローチ 

2005.4.30.up

 ハチロクの運転席からのっそり出てきた男は、随分と若い。
 名前は? と啓介が訊いた時の相手の態度は、若い割にふてぶてしかった。返ってきた相手の声は、ぼそぼそと口の中で発音されていて聞き取りにくかった。
 そこに好印象を与えてくれる要素はどこにもない。
 それなのにその声は、やけにすんなりと啓介の耳に届いて心を踊らせた。
 
『藤原、拓海』
 
 ──そう名乗る彼は、独特の存在感を醸し出していた。
 
 
 
 
 
 * * *
 
「あの時のことはちょっと忘れらんねえな…」
 山が夕暮れに真っ赤に染まる頃、何の脈絡もなくそんな独り言を呟く啓介に、拓海はちらりと視線を向けた。しかし、啓介に目を向けるだけで何かを言うでもない。また、啓介も拓海の返事など期待していなかった。
 ただその拓海の視線は台詞の先を要求しているようで、啓介は再びゆったり口を開いた。
「…お前と一番最初にバトルした時のことだよ」
 秋名の峠で、初めて拓海と啓介が戦ったバトル。
 夜の峠が居心地悪かったのか、あの時の拓海は所在なさそうにキョロキョロと辺りを見回していた。明らかに存在が浮いていて、周囲に溶け込んでいなかった。
 なのに、啓介が名を訊いた途端、正確には啓介と目を合わせた瞬間から、拓海の戸惑いは消え失せ、向こうっ気の強い態度へと変わった。
 やる気のなさそうな態度でありながら、目つきは好戦的で。
 その瞳で啓介を見据えてからの拓海は、最早周囲に頓着していないように見えた。
「あー…あれですか…。まあ、あれは…その、何つーか」
 言い淀む拓海を、啓介は一睨みしてフンと鼻でせせら笑う。その笑いに自嘲が多分に込められているのは仕方がないことだろう。
「余裕しゃくしゃくでオレをぶっちぎってくれたもんな? そのお前が覚えてるわきゃねえのはわかってるさ」
 そして、あの頃の自分が未熟で技術不足だったことも啓介はもちろんわかっている。色々見えてきた今となっては、ただ単にバトルに負けただとかであの時の悔しさを噛みしめるようなこともない。
 それはない、のだけれど。
「ま、勝敗は別にして、お前が生意気だったのがすげー印象的だったから」
 後で拓海に訊いてみれば、あのような夜の峠で車がわんさか集まってくるような状況などに遭遇したことなど今まで一度もなかったという。他の車と競ったこともない中で、あれだけギャラリーもいて、それなのに戸惑っていたにも関わらず全く怖じ気付く様子を見せなかった、藤原拓海と名乗る青年。
 その時は現役高校生だったというから、更に驚きだ。
「……『生意気だった』…?」
 少々口を尖らせてむくれる拓海に、啓介はさらりと肯定する。
「不満か? ホントのことだろ」
 言葉通りの意味の『生意気』とはちょっと違うかもしれないけれど、他の人間からしたらそうだとしか言いようがない態度だったと、啓介は思う。
「そうじゃねーってんなら自分で言い訳しろよ。お前いっつも何にも言わねーからな、誤解すんだろ誰だって」
 啓介の言うことは尤もだ。
 だが、どうでもいい人間には誤解されようとされまいと一向に構わないと考えている拓海には、正論なんて無用の長物でしかない。
 だから、有り難い啓介の進言を、拓海は他人事のように聞いていた。
 ──…別にどーだっていいけど、そんなの。
 誤解されたくない人に誤解されたら拓海としても大いに困るだろうが、そうでないなら構いはしない。
 などと思いながら啓介に視線を向けると、啓介は嫌そうな顔をして目を細めた。
「………………んだよ、何見てやがる」
「いえ別に」
「ウソつけ。言いたいことあんなら言えよ」
 ジトリと睨まれて、拓海は閉口した。
 明らかに先程より機嫌が急降下している啓介は、ちょっと扱いづらくなる。
 どのみち振り回されているのは拓海の方だが、この後の対応如何によってはますます気分を害されるかもしれない。
 話すのは苦手だし面倒だからそうしないだけで、啓介に隠し立てするような内容ではないのだ。
 啓介の機嫌を損ねないために、今はとりあえず何でも良いから喋るべきかと口を開いた。
「はあ…その、でも、啓介さんは誤解とかしてないみたいですよね…」
「…それが?」
「だったら、言い訳なんか面倒なだけですよ…。他人がどう思おうとどうだっていいです。興味ねーし」
「………………へ…?」
 あっさり断言した拓海の物言いに、啓介はくわえていた煙草を取り落とし、僅かに目を見開いて呆気にとられた。
 ぽかんと口を開けてしまったが、振り返って見た拓海の態度は普段と変わらずしれっとしたものだ。
 ──オレさえ誤解してなければそれでいいって言ってるようなものじゃないのかよ、それ?
 啓介はそう思った。
 しかし、しげしげと拓海を見つめてみても、いつもの眠たそうな目がこちらをぼんやり見返しているだけだ。
 台詞に深い意味なんてちっともなさそうな素振りに、溜息を吐いた啓介は気を取り直して再び煙草に手を伸ばした。
 おそらく、何も深く考えずに拓海は喋っているのだろう──拓海にとっての『他人』に啓介が含まれていないと、そう解釈できる言い回しだったことにも気付かないまま。
「………まあ、いいけど…」
 ふう、と天を仰いで煙を吐くと、紫煙が西の方へとたなびいていく。
 そのまま目で追うと、先程よりも暗くなった夕空は夜の気配がしていた。
 
 
 
 気付けば気温も下がっている。油断したら鳥肌が立つくらいに肌寒い。
 夜という時刻でもないが、こう暗くなるのが早いと星空が見えてくるのはあっという間だ。
 二人して天気の良い昼日中に出てきたせいで、少なくとも今の格好では山の夜の涼しさに対応しきれないことは明白だった。
「おい藤原、そろそろ──」
「…そうですね…行きましょうか」
 よっこらしょとジジくさく掛け声を掛けた時点で、尻のポケットに入っていた拓海の携帯がけたたましく鳴り出した。
 携帯を扱い慣れていない拓海のためにとプロジェクトDのメンバーがD専用にと音声を設定してくれたそのメロディが、軽快に流れる。
 ディスプレイの発信者を確認してからチラ、と啓介を横目で見て、拓海は受話ボタンを押した。
「…はい、藤原です」
 
 
 メロディからして当然相手はDのメンバーであることは、ディスプレイを見る前からわかっていた。
 そして拓海に連絡を入れるのは、通常史浩の役目となっている。
 内容も次の遠征についてのことやミーティング、ハチロクに関することと決まっているのだが、最近付随する用件──というか確認事項が一つ追加されていた。
 今回もその例に当てはまるらしい。
『──というわけだから、よろしく頼む。あとな…』
「はい? ………え、啓介さん…ですか?」
 携帯の会話の最中、自分の名前が呼ばれた啓介は拓海の方を振り返った。
『ああ。前にも言ったけど、あいつの携帯、最近日中は繋がらないことが多いんだ。ったくどこ走りに行ってるんだか。藤原、秋名の峠で啓介を見掛けることってあるか?』
「まあ………なくはないですけど」
 今目の前に啓介さんいますよ。とは流石に言えない。
『そうか…。まあ連絡事項は涼介に頼んでるから漏れはないはずだけど、あいつ自身が掴まらないのも困るからなあ。居場所が大体わかればいいんだ、悪いな妙なこと確認して』
 ──そりゃ本人いなけりゃ打ち合わせしても意味ないから困るよな…心労多いだろうなぁ史浩さんも。
 と拓海は心の中でそんなことを思いながら、再び啓介を見ると視線がばっちり合った。
 拓海の携帯から相手の声は全く漏れていない。
 だが啓介の表情から、通話相手の予測をつけたことは拓海にもわかった。
 おそらくそれは間違っていないだろう。
「………いえ。それじゃあ──」
 
 
 通話を切るなり呆れた顔を向けてきた拓海に、啓介は肩を竦めた。
「………啓介さん。アンタ…」
「今の史浩だろ。何だって?」
「………………次の遠征先のビデオを渡しに来るっていう連絡です。それと、ミーティングの日時」
「ああ、そういや今回はケンタじゃなくてオレが走って撮ったヤツだから、ライン取りは完璧な筈だぜ」
 少し自慢げに、だが淡々と宣う啓介に、拓海は胡乱げな目を向ける。
「…アンタ今、携帯持ってますよね。もしかして電源切ってます?」
「いや。ドライブモードにしっぱなし」
 即答する啓介の態度はデカい。
 わかっていてわざとドライブモードにしているとしか思えない態度だ。
 史浩が困っていることも承知の上だろうと考えると、拓海は忠告する気も失せてしまい、代わりに溜息を吐いて問い掛けた。
「…啓介さん」
「何だよ」
「用もないのにオレ呼びつけて、ドライブモードにしっぱなしですか? …ワケわかんねーですよ、それ」
「いーだろ別に。──お前こそ、ワケわかんねーってんなら何で来るんだよ」
 啓介が少し面白そうに拓海の顔を窺うと、少し答えに逡巡してから拓海は口を開いた。
「………別に、暇だから」
 逃げた返答だな、と啓介が問い詰める前に、拓海はさっさとハチロクの置いてある場所へと足を運ぶ。
「もう帰るんでしょう。寒くなりますよ」
「………ああ。んじゃ、次に会うのは赤城だな」
 伸びをしながら啓介が言うと、拓海は半ば睨むように上目遣いで啓介を見上げた。
「アンタがまたオレを呼び出さなければね」
 …呼び出したのは啓介だが、断らなかったのは拓海だ。なのに責任転嫁しようというのか。
 恨み言になってないその台詞に、啓介はぷっと吹き出した。
 笑われたことにムカついたのか、憤然と背を向けた拓海は啓介を無視することに決めたようだった。
「じゃーな」
 笑いながら言ってみた啓介の挨拶への返事は、当然返ってこなかった。
 
 
 
 ──アンタがオレを呼び出さなければ──
 では、啓介が呼び出せば拓海は来るのだろうか。
 暇だからとそう言って。 
 
 考えれば考えるほどこみ上げてくる笑いを抑えきれず、ククッと笑いながら啓介は自分の車に乗り込んだ。
 エンジンキーを回しつつ、フロントガラスの向こうの暗さに目を細める。
 いつの間にか、ライトの必要な時間帯になっていた。
 薄暗い山の景色を眺め、既に視界から消えてしまったハチロクとそのドライバーのことを、思う。
 気に入る気に入らないで言えば、啓介は藤原拓海を気に入らないと、誰かに訊かれればそう答えている。
 ──オレに忘れられない印象を残しておいて、逆にお前がオレを覚えてねえっつーのが癪に触る。
 だから、気に入らない。
 気に入らない人間だというのではなくて、そういうところが気に入らない。
 けれど、啓介が今日みたいに気紛れに無理矢理連れ出したりしているうちに、どうでもいいという斜に構えた冷めた態度の裏側で、確実に拓海の気持ちが少しずつだが傾いていっている。それは明白だ。
 突然の啓介の呼び出しに、面倒臭そうにでも暇だったからという理由で峠まで出向いてきたように。
 そして、啓介を『他人』扱いしなかったように。
 
 啓介にとっては、面映ゆい変化だ。悪い気分じゃない。
 以前より拓海が喋るようになったのも、悪くない。しかも拓海は飾らない正直さで物を言うから、自分としても気楽に付き合える相手だ。
 しかし、自分が拓海をどう扱いたいのかは啓介にもよくわからない。
 生意気で愚鈍そうなあの男を殊更自分に懐かせたいわけじゃないし、そうなったら鬱陶しいだろうと思う。
 ただ──こちらをあまり見ない男の目をこちらに向かせたい感情は、確かにある。
 
「──ま、やりたいようにやるさ」
 多分あいつも、な。
 
 あまり頭を使うことでもないだろう。したいようにする主義はお互い様のようだから。
 シンプルな結論を導きだした啓介は、鼻歌混じりにアクセルを踏み込み、秋名の下りを意気揚々と流していった。



終     

   

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