夢は執着の証 

2003.7.27.up

 講義終了の時刻を告げるチャイムが、遠くから聞こえてくる。
 それを受けてチョークを置く教授の動きに合わせ、生徒たちは次々に荷物を手早く片づけていく。そして、講義終了の台詞を聞き終えるのもそこそこに、彼らは席を立ち、友人と楽しげな話に花を咲かせながら、講義室から去っていった。
 啓介も、その講義を受けていた生徒の一人である。
 だが、ぞろぞろ出ていく人の多さを見ているだけでうんざりしてしまった啓介は、人の空いた頃に講義室を出ようと考え、どっかり椅子に座ったまま高い天井をぼんやり見上げていた。
 すると、横から近付いてくる人影が一つある。
 明らかに自分に用がありそうなその人物に、少し体の向きを変え、座りなおしてそちらを見れば、学内では自分とツルむことの多い友人が一人、己の側まで来て立ち止まり、啓介を見てニッと笑った。
「よ、高橋。珍しいな、お前がこの授業にまともに出てるなんてよ」
 指摘されるのが尤もなほど、啓介は出欠を取らないこの選択科目の講義を受けたことはなかった。
「…たまたまそういう気分になったんだよ」
 面倒臭そうに言うその言葉はおざなりな返事ではなく、事実だった。
 但し、真の動機は別にある。
 少しだけ、啓介は朝のことを想起した。
 啓介がいつも自分に課している赤城での早朝の走り込みだが、何故か今朝に限って、上手くいかなかった。
 体調が悪いわけではない。クルマのコンディションも路面も、いつもと大きく変わることはない。また、どんな状況だとしても、赤城なら絶対に走りこなせる自信がある。だが、全てはいつも通りに思えるのに、集中することが困難で、調子が上がらなかった。
 そんな時は、いつまで走り込んでも意味がない。
 経験上それを知っているから、啓介は早めに切り上げ、乗らない気分を少しでも変えたくて、いつもは出ないこの講義を受けてみたのだ。
 だからといって、講義に集中できたかというと、残念ながらそうでもない。
 結局、教授の声は殆ど耳に入らず、啓介の頭の中は今朝のことで一杯だった。
「たまたまそういう気分に、ねぇ………。今日は雨が降るぜ、きっと。せっかくいい天気なのに」
「…るせえな」
 にやにや笑って皮肉る友人を、啓介は軽く睨む。
 だが、彼は飄々としたもので、にこやかな表情を崩さず、近くの席に腰を下ろした。
 大勢の学生は既に立ち去り、だだっ広いこの講義室にいるのは、啓介とその友人の二人だけになっていた。
「なあ。唐突だけど、一つお前に質問。………お前だったらさ、こんな状況だったらどうする?」
 唐突に、ズイッと顔を近付けた友人に勢い込んでそう聞かれ、啓介は少し仰け反った。
「………こんなって、どんな」
 意図の掴めない質問に首を傾げてそう訊ねると、彼は曖昧な表情を浮かべて口を開いた。
「その、たとえば。…すっげー好きなものがあって、どうしても欲しくて、でも手に入らないってわかった場合。絶対無理だってわかったら、お前、退く?」
 啓介は、唐突すぎる話題に、目の前の友人をマジマジと見返した。
 …何の話、なのだろうか。『好きなもの』というのは、買える品物なのか、人間か、それ以外のものなのか。いずれにも取れるような言い方ではある。
 もしこれが『好きな人』だとするとこれは恋愛相談のようなものであるわけで、実は啓介の最も苦手とする分野だが、しかしこの友人はそのことをよく承知しているはずだった。あるいは全てを知った上で敢えて啓介に話を振っているのだとしたら、適当に話せる人が誰もいなかったか、たまたま啓介に話をしてみただけか、はたまた啓介自身の答えを聞きたいのか。
 ここでもし『物品が欲しい』という意味で言っているのなら、『絶対無理』なことはないと啓介は思う。確かに、金で買える品物も名誉も、スケールが大きければ自分の力や意思でどうにかできないことも多く、手に入れにくいだろう。だが、努力で何とかなる可能性も無視できない。
 別の視点から見れば、抽象的なものの場合、『欲しい』とは表現しても『好きだ』という表現は使わないように思う。そう考えると、やはり『好きな人』のことなのだろうか。
 一体何を自分に聞きたいのかと目の前の彼に問い返したかったが、何となく答えてくれないような気がして、啓介は聞くのをやめた。
 相手の真意はどうあれ、訊ねられている立場にあるのは自分だ。どう答えるかも、自分で決めればいい。
 啓介は、その質問に対して己の率直な意見を述べた。
「オレなら退かない。…多分…、いや絶対」
「絶対? へえ、そりゃまた何で」
 退かない、という啓介の答えを予想していたのか、彼は動じることなく、理由を訊ねてくる。
 それに対しても、啓介はやはり素直に思うままを答えた。
「諦めたら、そこで終わりだからな」
 当然だろ、とばかりにそう言って、啓介は再び今朝のことを思い浮かべた。
 走り込みのことではない。それより数時間前の、今朝目覚めた時のことを。
 普段夢を見ない、見ても覚えていない熟睡型の啓介が、今日に限って、明け方に見た夢を覚えていた。
 夢の中でも峠を攻めていることには笑えたが、それ以外は笑えたものじゃなかった。
 夢には、自分の他にもう一人だけ登場していた。
 それは、同じプロジェクトDで下りを走るドライバー、藤原拓海だった。
 夢の展開を思い出しながら、啓介は友人から微妙に目を反らした。
「………たとえ今は手に入らなくても、今は絶対に無理だとしても。…少し先に行きゃ変わるかもしれねえし…どうにかなることだってある。第一、未来なんて誰にもわからねえんだぜ。だったら自分で自分の望む運命を手繰り寄せてやるさ。………手に入るか入らないかなんて、結局は自分次第だ」
「…ふぅん、なるほどね。高橋にはそういうもんがあるわけだ」
「………何でそう思う?」
「そういう答え方は、自分がそういう状況にいないとなかなか出てこないぜ?」
 意味有りげな目線をよこしてくる友人に、啓介はフンと鼻を鳴らした。
「まあ、楽じゃねえけどな………。ハードルは高い方がやりがいがあるってもんだろ」
 言い置いて、立ち上がる。
 ………そう、ハードルは高くなければ。
 今朝の夢のような展開には、絶対にさせない。
 後ろからハチロクに抜かれるのは、一年前の秋名の峠だけで十分だ。
 確かに、今の拓海はあの時よりも速い。プロジェクトDが始動してからの彼の成長速度は、啓介でさえも舌を巻く。それを毎度毎度、遠征の度に間近で見せつけられて、刺激にならないわけがない。
 そして、刺激を受けて集中力を増して。同じ時間分だけ啓介も走っている。
 技量の差などあるものか。
 次にバトルする時には、勝ってみせる。
 拓海を、己と同等かそれ以上に速い相手だと認めているからこそ、啓介は彼に勝つということに執着しているのだ。そういう相手でなければ、勝負したいとは思わない。
 
「やりがい、ねぇ………。そりゃ、あるに決まってるけど…」
 納得したような、していないような声で呟く友人に、啓介は背を向けながら言った。
「誰にも譲る気はないって思えないようじゃ、諦めな。そんなんじゃ、無理だぜ」
 ひらひらと手を振って、今までいた講義室を後にする。
 友人も後ろからついてきていたようだが、行き先は啓介とは異なったようで、いつしか気配も消え、足音も聞こえなくなっていた。
 
 
 
 
 
 啓介は、自分より速い人間が掃いて捨てるほどいるということを、知っている。
 それでも、今啓介が照準を当てているのは、拓海だ。
 ライバルは、藤原拓海ただ一人。拓海より速い人間が側にいようと、それとこれとは別問題。
 あるのは、藤原拓海に勝ちたい、という強い願望なのだ。
「オレは、自分のもんにしてみせるぜ」
 この勝負を、その勝利を、我が手に──
 思わず声に出して呟いてしまい、啓介は苦笑を零した。

 こんな時、自分は周りが見えていない。
 まるで恋でもしているようだ、と思った。



終     

   

novel top
HOME