無知という名の罪-2- 

2002.2.16.up

 あの頃はうだうだとこんなふうに考えることもなかった、と啓介はらしくもなく過去を振り返った。
 ところどころ詳細な記憶が抜けているが、さほど古くはない過去だ。
 赤城から秋名山へとわざわざ乗り込んで、『交流会』という名目でタイムアタック形式のバトルを申し込んだ、あの時。去年のあの頃はまだ、今のように複雑に入り組んだ感情など、持っていなかった。
 もっと単純でクリアだった。関心があるものとそうでないもの。好きと嫌い。それだけですんだ。
 今となっては懐かしい感覚だ。
 
 啓介は、古くなり錆びついてきた朧気な記憶の糸を、無意識のうちに少しずつ手繰り寄せていた。
 
 
 
 
 あの夏。
 秋名峠、夜十時。
 負けるはずがないと確信していたバトルだった。
 
 もう来ないだろうと諦めてスタートラインにクルマを並べたすぐ後、時間ピッタリになってから、本当のバトルの相手-ハチロク-は現れた。
 やがてドアが開き、ゆったりとその場に降り立ったヤツを見た瞬間に啓介の背筋をゾクリと駆け上がった快感は、彼の力量を感じてのことだ。
 ──速い。
 理屈抜きに、そう感じる。そんなオーラが漂っている。
 ──こいつが、…あのハチロクの。
 じっくり顔を見てみれば随分若い。だが、年齢なんざ関係ない。見縊ってなどいるものか。
 たとえコースへの不慣れと油断があったからとはいえ、なりゆきでバトルになったという経緯の元、一度は抜かれた相手だ。
 速いヤツだなんて、その時からわかっていた。
 だからどうしても、もう一度バトルがしたかった。
 
 あれは、数日前の明け方のことだ。
 初の秋名での走り込みを終え、給油を兼ねて本日最後の下りを楽しんでいた。
 自分の本気の走りについてこれないメンバー達に、啓介が仕方なく速度を落として待っていると、後方から一台のクルマがどんどん近付いてくる。
 遅いんだよ、とメンバーの顔を思い浮かべて内心嘯く啓介だったが、バックミラーをよく見れば、そのクルマは同じチームのメンバーのものではない上に、啓介のFDに追い付いて間もなく、何と追い抜きをかけてきたのだ。
 調子に乗るんじゃねえ、と啓介が憤然としながらアクセルベタ踏みで加速すると、ボロいハチロクはピタリと食らいついてきた。そしてコーナーの手前でアクセルを緩める啓介に対し、そのまま加速し続けたハチロクが披露してくれたのは、………そんじょそこらじゃ早々拝めないようなテクニックだった。
 ──中低速コーナーでの見事な慣性ドリフト。
 その切れ味の良さに、刹那、目を瞠って絶句した。
 鮮やかに描かれた理想のラインが、あっさり前を行かれた屈辱とともに、目に焼き付いた。
 闇を切り裂くヘッドライトと、見る見る遠ざかるテールランプ。
 忘れようとして忘れられるものではなかった。
 このコーナーを、自分はあのハチロクほど攻めきれていなかった。
 自身の走り込みの詰めが甘いのだと眼前で見せつけられて、多大な悔しさを味わった。
 
 あれからバトルまでの数日間、何度秋名で走り込みをしたことだろう。
 走り込めば走り込むほど、ハチロクの描いた奇跡のようなライン取りを思い出した。
 カウンターを当ててからの荷重移動、そして最短コースでリアを流してコーナーを走りゆく軌跡。
 感嘆に値するマシンコントロールだった。
 横に並ばれ追い越された時には、きついコーナーを前にしながらかなりのスピードがのっていて、あわやクラッシュかと肝を冷やした。
 ハチロクのドライバーがそれを制御できる腕の持ち主だとは、予想しなかった。
 だが、同じ過ちは二度と繰り返さない。絶対に抜かれやしない。
 今度こそは勝ってみせると、啓介は心に固く誓っていた。
 そして、バトル当日。
 勝つ以外の可能性は、当然これっぽっちも考えていなかった。
 そんな中、蓋を開けてみれば──
 結果は初回と同様。ヘアピンで、しかも今度はインから抜かれた。
 前回に続いて二度までも、あのハチロクにしてやられたのだ。
 この自分が、7秒の大差をつけられて敗北を喫するなんて、信じがたいことだった。
 マシンの差を考慮すれば、もっと理解できない。
 ハチロクとFD。各々のクルマの基本性能、特筆すべき利点と欠点。メカニカルな面も、ある程度はわかっているつもりだったのに。
 それなのに、このていたらく。惜敗どころか、惨敗に等しい。
 はらわたが煮えくり返るくらいに、ムカついた。相手にというより、むしろ自分自身に対して。
 涼介に説明を受け、自分ではわからなかった相手の技を知った。それは確かに、地元ならではだと理解はした。が、屈辱感は拭えない。7秒もの差ができたのは、そのせいだけではないからだ。
 各コーナーでどんどん距離を縮められたこと、即ち、相手にできて自分にはできなかったコーナーワークが直接の敗因。
 第一、理屈はどうあれ結果は結果、誰の目にも明らかである。それは誰よりも、自分自身が身を以て知っている。
 この時点で、このコースにおいて、ヤツのテクニックは明らかに自分のそれを上回っていたのである。
 
 後に、負け知らずだった兄にさえも黒星をつけたハチロクのドライバーの実力と資質は、最早疑いようもなかった。
 ヤツは本物だ。
 頂点を極められるのは、素養を持ち、よりよい環境の中にいながらも、努力を惜しまない貪欲な人間だと聞く。それはほんの一握りの人間だと言われるが、藤原拓海もまたその一人なのだと知った。
 ならば余計に、これ以上自分が負けるわけにはいかなかった。
 啓介もまた、頂点を目指している一人であり、唯一のトップの座を誰かに譲る気は更々ないからだ。
 冠は一つ。最速の称号を持つ者は複数ではない。
 拓海との対決は、まだまだ実現するに至らないバトルだが、リターンマッチの時には必ず。
 アイツをちぎってみせる。
 先にゴールを割るのは、自分。
 
 それが、藤原拓海に対する啓介の気持ちであり、拘りであり、彼に向かう感情の一切合財はそこに集約されていた。
 
 
 
 
 季節は変わり、新たな年が幕を開けた。
 現在、啓介と拓海は同じチームのメンバーとして活動するようになっている。にも関わらず、尚も変わらないこの強い気持ちは、赴いた遠征地でバトル相手が目前にいても、心の片隅に息づいている。バトルの相手チームと同様か、ややもすればそれ以上に、同じチームの拓海を意識している。
 バトルは勝つ。どんな強敵であろうとも、どれだけのマイナス因子がそこにあろうとも、勝ってみせる。
 初めてのコースを走り込み、その攻略にとあらゆる状況を考え、闘志を燃やし──けれど今にも始まる勝負を前に、啓介はいつもバトルの相手以外の別の何かを見つめていた。
 その目に映るものは、架空の理想でも仮想の敵でもない。
 越える価値のあるものと啓介自らが判断して、その先に据え置いているハードルのような存在。
 己が進みたいがゆえに進む道、夢を現実のものとするために選び取る道──その道を行くのは啓介一人ではないと知らしめ、競り勝ちたい思いを最も奮い立たせる者。常識外れに卓越した能力と技術を持ち合わせ、啓介の闘争心をより一層燃え上がらせるドライバー。
 藤原拓海、Wエースの片割れに抱く感情が、いつでも啓介の心の中で、何より強いのだ。
 後ろでも横でもなく、ヤツの前を走ること。それまで、誰の背中も見ない。自分の前を走らせない。
 ──バトルをしてアイツに勝つまで、絶対誰にも負けられねえ。
 この気持ちだけで手一杯で、他に余裕なんかない。
 自分だけが相手の存在を意識しているんだとわかってても、止まらない。
 
 それは今も、多分これからも変わりはしない。
 だが、どうしてここにきて──余計な感情まで背負い込むことになったのか。
 啓介には、それだけが解せなかった。認めたくない、と言ってもいい。
 考えることこそバカらしい、と思う反面、今までどうでもよかった拓海の気持ちが気になっている自分に、啓介はますます嫌な気分に陥った。
 切って捨ててしまいたい。
 けれど、すんなり切り放せない。
 気に入らないとずっと思っていたのは、啓介自身が認める彼の実力を、彼自身が正当に評価していなかったからだと、今は啓介も気付いている。
 そして未だに自覚がないことにも、苛立ちを抑えきれない。
 無難な対処方法は、やはり、藤原拓海を必要以上に視界に入れないことだった。
 
 
 
 
 ──気にすればするほど、いろんな理由で腹が立つ。だから見たくない。
 そう思って、今も拓海から顔を背けていたはずなのに、いつの間にか啓介は、彼を目で追ってしまっていたようである。
 数メートルと離れていない場所にいる拓海は、暢気な顔でペットボトルを手にしたままボケッと突っ立っている。
 視線を外そうとして、啓介はドキリとした。
 まるで示し合わせたかのように、拓海がこちらを振り返ったのだ。
 逸らさなければ、との思いに反して啓介の体は動かず、ごく自然に、互いの視線が絡み合った。



.....続く     

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