峠の夜明け時は、滅法寒い。
足元からくる一段と冷たい冷気に、身を震わせながら拓海は思う。
「マジ、凍える…」
自販機の前であたたか〜いお飲み物をゲットして、それを両手で大事に握り締めながら『あったけー』と呟くと、後ろから声が掛けられる。
「おい、浸ってないで早く退けって。オレが買えないだろうが」
言うと同時に、後ろの御仁は拓海を両腕で抱き竦めた。
しっかり体重ものせられて、突然のことに拓海は足元がよろけてしまう。
「っもう! 何すんですか」
「…確かにあったかいな」
拓海の背後にぴったりとくっついたまま、拓海の買った缶をするっと抜き取り、彼は自分の手の中に収める。
「あ、オレのコーヒー!」
「ちゃんと返すって。とらねえよ、ほら」
あっさりと返してくれる。
だが、肩や首に絡んだ腕は解かれない。
それどころか、彼の長い指が悪戯に、顎やら耳朶やらをくすぐってくる。
優しいけれど、それは何やらアヤシイ動きにも思えて、拓海は動きを止めるべく、彼の手を掴んだ。
「………ちょっと…。何、してんですか。この手は」
言うと、クスリと耳元で微笑む気配がする。
そして彼は、もう片方の手で拓海の手をゆっくりと外し、拓海の顔を後ろから覗き込んだ。
「何だと思う?」
間近で、彼は拓海に、満面の笑顔を披露してくれる。
──嫌な、予感。
拓海は、彼の笑顔が好きだ。声も、ぬくもりも、彼のものなら何でも好きだ。
けれど、この笑みは。
「………さあ? わかりません」
彼のこの笑みは、悪魔の微笑み。
拓海は、わからない、のではない。この場合、『わかりたくない』と言うのが正しい。
「凍えるって、さっき言ってたから。あっためてるつもりなんだけど」
「もう十分です。この缶ジュースもあるし」
「それだけじゃ足りないだろ?」
背後からずっしりと伸しかかってくる彼の体重は、もちろん拓海の体重よりも重い。
重いがしかし、くっつかれること自体が拒絶の対象というわけではないので、拓海としても完全には拒めなくて、対処に困る。
「いえ、十分足りてます」
「へえ、そう?」
彼が首を傾げる。と同時に、彼の冷たい手が拓海の衣服をペロリと捲り、素肌を滑った。
「うわ、つめた………っ」
ヤバい状況だ、と拓海は思う。
このままでは拓海の意思に関わらず、勢いで流されてしまいそうである。
彼の強引さには慣れたつもりだし、引く時には引く彼の性質もわかってはいるが、それはケースバイケースで、例外がある。
「こういうことしたら、もっとあったかくなると思うぜ?」
熱い吐息を吹きかけられ、心底ヤバイと思った拓海は、ギュッと目を瞑って抗議の声を上げた。
「その前に風邪ひきますっ。何考えてんですか、こんなトコで!」
「ここじゃなければいいのか?」
「…だから、そういう意味じゃなくてですね…」
げんなりと言葉を継ぐ拓海を、彼は遮った。
「悪いけど、無理なんだ」
ぐっと下半身を押しつけられた拓海は、その量感と硬さにドキリとする。
「………こういう状態だから、さ」
嫌な予感は、的中した。
こんなに寒いのに冗談ではない、という思いとは裏腹に、拓海の体は彼の高ぶりに過去の情事を思い出し、僅かながら反応を見せる。
だが、どんなに彼がせっついてきたって、御免被る。
こんな場所でサカる彼もどうかと思うし、それに付き合わされるなんて状況に陥るのは、絶対にお断りだ。
脅しにも泣き落としにも、首を縦に振ったりはしないと、拓海は心に固く誓う。
「…そうですね、すぐにどこかに移動っていうのは無理そうですよね…」
「だろう」
得意そうに頷く彼の意見を受け入れる気は、拓海にはもちろん毛頭ない。
「だったらとりあえずオレから離れて下さい。その後は、そうだな、冷水でも頭から浴びれば熱は冷めると思いますよ。何でしたら、オレが手伝ってあげましょうか」
悪戯を続ける彼の両手首をしっかり捕らえ、拓海は斜め後方の彼を顧みた。
視線がかち合う時間が数秒続く。
「………そんなにイヤか? どうしても?」
「どうしても、です」
当たり前である。
すると、彼はガックリして諦めるどころか、瞳をキラリと輝かせた。
「………もし、実力行使に出たら?」
どうしてそういう話になるのか、拓海には全くわからなかったが、答えは決まっている。
同じように瞳をキラリと光らせて、堂々と拓海は言い放った。
「受けて立ちますよ。力には力で、カタをつけます」
「…上等だ」
物騒な光を放つ二対の目。
愛のカタライやら口説き文句やらは全くそっちのけで、手っ取り早く腕力で以て己の意見を通すという方法に、光明を見出した二人であった。
* * *
彼は眉を顰め、思いきり顰めっ面をしていた。
それもそのはず、頭がズキズキと痛むからである。
「………………頭が痛い」
「そうですか」
「………………タンコブできたぞ」
「早く治るといいですね」
「藤原、手加減って言葉、知ってるか?」
「知ってますよ。相手によって使い分けてますけど」
「………………オレは手加減の対象にはならないわけか」
そう言われ、拓海はようやく彼の顔を見た。
そして、真顔で言う。
「加減、してほしいんですか?」
すると、彼も真面目な表情になる。
「………いや。いつでもマジでないと、こっちが困る」
言い切った彼だが、しかし次の瞬間には、ムッとした顔になってぼやきを口にした。
「…でもな、殴る時は手加減してもいいんじゃねえか?」
「自業自得です」
「あのな。トータル的に見て、痛い思いをしたのはどっちだと思ってるんだ」
「トントンじゃないですかね。オレだって痛かったし、さっきはさんざんそう言ったはずですけど。…聞いてないとは言わせませんよ」
「………………………。まあ、それは…。いや、そうじゃなくて、オレが言いたいのは…──」
彼の台詞に被せるようにして、拓海は言った。
「仕掛けたのは、誰でしたっけ」
「………………オレ、だけど」
「だから、全部、自業自得。でしょ?」
ふんわりとまろやかに笑う拓海の笑顔には、邪気がない。
それに対抗しうる材料が見当たらず、彼は反撃を渋々断念し、深い溜息を吐いた。
彼は、ほしかったぬくもりを得た、のは得た、と言えるかもしれない。
だが、それなりの代償は、支払った。
刹那的なぬくもりであったとしても、同等以上の、いや、倍以上の代償が、それには必要なのであった。
終
|